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日本軍「慰安婦」問題・関西ネットワーク

Author:日本軍「慰安婦」問題・関西ネットワーク
わたしたちは日本軍「慰安婦」問題解決のため、関西を中心に活動しています。

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【追悼】パク・チャスンハルモニ

中国大陸に残されたハルモニは、本当は韓国に帰ったハルモニより多かったのではないかと思っている。そのくらい、敗戦後に放置されたハルモニたちの絶望は深かった。そんなハルモニがまた一人亡くなられた。合掌。(だい)

中国湖北省に暮らしていた日本軍「慰安婦」被害者パク・チャスンハルモニが

2017年1月18日午前7時30分に亡くなりました。

 

1923年に生まれたハルモニは

家が貧しく伯父の家にあずけられ、酒を売る丁稚奉公をされました。

そうしているうちに中国へと売られ

湖南省、南京などで日本軍性奴隷にされ苦労しました。

解放後、日本軍は武漢の日本租界地で日本軍「慰安婦」を集めましたが、

日本軍の監視がゆるんだすきに逃げ出しました。

「慰安婦」生活をしたことをとても恥ずかしいことだと故郷に帰ることは考えず

そのまま中国に残りました。

昨年、中国湖北省にハルモニを訪問したとき、ハルモニは韓国語をすべて忘れていましたが

故郷はどこかとたずねると全羅南道羅州だと韓国語でこたえ、アリラン、豆満江などを歌われました。

「朝鮮は大丈夫かい?」と故国の心配をしていたハルモニ。

健康状態が急に悪化し、今日の午前に目を閉じられました。

ハルモニ、これからは苦痛をすべて忘れ、故郷の心配もせず、

安らかにお眠りください。

パク・チャスンハルモニのご冥福をお祈りします。

韓国挺身隊問題対策協議会



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訃報 | 19:48:02
【追悼】朴淑伊ハルモニ
皆さま

慶尚南道の南海に暮らしていた朴淑伊ハルモニが
12月6日午後8時40分に亡くなられました。

1922年に生まれたハルモニは
話し上手で日本軍「慰安婦」問題を広く知らせるため数々の講演も行ってこられました。
何度も体調を崩しましたが、再び起き上がられました。
最近、健康状態が悪化し、心配していたところ、
今日の午前には重患者室から一般病棟に移られたとの知らせを受けましたが、起き上がることができず逝ってしまわれました。
2~3ヶ月前に訪問したとき、息ぐるしく話すことさえ困難な状態でしたが、
日本は早くハルモニに謝れ、間違っていたとわびろ、そして再び悪いことをするな、
そう言われたハルモニ。
これからは苦痛も痛みもすべておいて、安らかにお眠りください。
朴淑伊ハルモニのご冥福をお祈りします。

韓国挺身隊問題対策協議会

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訃報 | 00:16:05
【追悼】ユ・ヒナムハルモニ
ナヌムの家で暮らす柳喜男ハルモニの訃報が入りました。

昨年12月28日の日韓合意を「被害者の同意がない」と批判したことでも、ご存知の方が多かったのではないかと思います。

韓国で登録されている被害者は40人。今年に入ってから6人も亡くなられました。
被害者の過ごす時間が最晩年であるこの時期に、あのような合意がなされたことは本当に犯罪的だと、改めて思い知らされます。

以下、韓国挺対協からの訃報です。
(だい)




皆さま

ナヌムの家で暮らしていたユ・ヒナムハルモニが
2016年7月10日午前8時23分に亡くなられました。

ハルモニは
1928年忠清南道で生まれ
15歳になった1943年に下関に連行され
終戦まで日本軍性奴隷として苦痛を受けました。
解放後も生計維持のために辛い労働をし
2012年になって京畿道広州にあるナヌムの家に入居されました。

ハルモニのご冥福をお祈りください。
韓国の生存者は40名になりました。

訃報 | 21:31:30
【追悼】韓国被害者逝去
韓国挺対協より訃報が届きました。
亡くなられても、名前が公表できない。これが日本軍「慰安婦」問題なのだと、改めて考えさせられます。
私たちはこのような被害者のためにも、日本政府を追及していかなければなりません。諦めることなくがんばりたいと思います。(だい)


皆さま
昨晩(6月22日)
ひとりの日本軍「慰安婦」被害者が亡くなられました。
ハルモニの冥福を祈り
ハルモニの人生に大きな苦痛を与えたにもかかわらず
反省しない日本政府の犯罪を明らかにし
責任を履行するよう
挺対協は最後まで努力します。
ハルモニが安らかに眠れるよう祈ります。
家族の意向により名前や写真は公開できません。

訃報 | 21:31:57
【追悼】イ・スダンハルモニ とコン・ジョミョプハルモ二
韓国挺対協より訃報が届きました。同時に2通も。

お一人はイ・スダンハルモニです。写真家の安世鴻さんが撮られている写真が印象的で、ご記憶の方も多いと思います。

もうお一人はコン・ジョミョプハルモ二。97歳だったそうです。



イ・スダンハルモニは中国大陸で「見つかり」ましたが、同じように中国大陸や東南アジアで置き去りにされ、歴史に埋もれた被害者は、もっともっと多かったであろうことを想起すると、心穏やかではられません。日本政府が「最終的不可逆的に解決した」などと言って喜んでいる今の情勢下にあっては、なおさらのことです。

安倍政権が被害者の尊厳を傷つけている限り、これは過去の問題ではありません。



明日から、韓国ソウルでアジア連帯会議が開催されます。解決のための糸口を世界中の被害者・支援者と話し合い、今日本で何が必要かを確認してきたいと思います。(だい)










皆さま



もうひとりの日本軍「慰安婦」被害者が亡くなられました。

中国に暮らしていたイ・スダンハルモニが

17日午後に他界されました。



1921年に平安南道で生まれたハルモニは

19歳のときに満州にある工場へ行けばお金を稼げるとの言葉にだまされ

中国黒竜江省に連行されました。

思いもしないところに連行されて刀をもった日本軍の姿を見て

とても恐ろしく逃げようとしましたが捕まりひどい目にあわされ

慰安所でつらい生活を送りました。

戦争が終わり故郷に帰りたくて何度も手紙を送りましたが

結局故郷には帰れず中国で暮らしました。



母国語をすべて忘れてしまい

ハルモニの胸の奥に埋まった無念を母国語で表現できないことを悔しがっていたと聞いています。

幼いころに他国につれていかれ最期まで故郷の地を踏めず亡くなったイ・スダンハルモニ。

これからはすべて忘れ安らかに眠ってください。

ハルモニの冥福をお祈りします。






皆さま



全羅南道海南に暮らしていたコン・ジョミョプハルモ二が今日(5/19)午後5時10分に亡くなられました。



ハルモニは1920年に全南務安で生まれ

16歳(1935年)のときに職業を紹介してやるとの言葉につれられ

上海、ハルピンなどで24歳を迎える1943年ごろまで

日本軍「慰安婦」として惨く苦痛の人生を送りました。

1945年に海南にもどり

47年に結婚しましたが夫は8年後に他界し

夫との間に生まれた息子を一人で育てました。



ハルモニは2002年から挺対協活動に参加しはじめ

金剛山人権キャンプや済州島人権キャンプなどに参加し

「こんな世界もあったんだね」と子どものように喜ばれました。

長い間の農作業によって腰が90度に曲がってしまった体で金剛山に登っていたハルモニの姿

済州4.3虐殺犠牲者の話を聞いてため息をついていたハルモニの姿が

今も目に浮かびます。



2年間の入院生活でも希望を忘れず

海南地域で日本軍「慰安婦」問題解決のため活動する[コン・ジョミョプハルモニとともにする海南ナビ]会員がたずねると

「何度会っても恋しくてまた会いたくなるよ」とうれしそうにされました。

そうやって人々の心をつかみ人情を分かち合いました。



2ヶ月前から病状が悪化し

長い闘病生活の末、ハルモニは97歳の人生を終えました。

ハルモニの逝く道が、差別のない、性暴力被害も戦争の恐怖もない世界であることを切に願います。





訃報 | 23:25:09
【追悼】キム・ギョンスンハルモニ
韓国からまた訃報が届きました。
これで44人。

あの欺瞞的な日韓「合意」後に、次々とハルモニたちが亡くなられていっているように感じるのは、私だけでしょうか?
本当であれば被害者にしっかりとした日本政府の謝罪と賠償を届けなければならないというのに、安倍首相・日本政府の口から出るのは
「朴槿恵大統領に電話でおわびを伝えた、これ以上謝罪する気はない。不可逆的に解決したのだから」
「10億円は賠償ではない」
とても、ハルモニたちに申し訳なくてたまりません。

私たちはどうすれば、ハルモニたちの悔しさに応えることができるでしょうか?
その問いを常に身に課しながら、日々を生きていきたいと思います。(だい)




キム・ギョンスンハルモニが2月20日に亡くなられました。
ハルモニは1992年に挺対協へ申告した後に活動をはじめ
2006年からは老衰で入退院や手術を繰り返して苦労されましたが
何とか耐え抜いてこられました。
看病人の介護で過ごすハルモニは
挺対協スタッフに会いたくなると電話をかけてきました。
「遊びにこないのかい?」との質問に「行きますよ」と応えると
「うれしいね」と寝たきりの生活でも喜びを忘れず暮らしてこられた方でした。
ところが、数日前に突然入院され、重患者室に移り
今日の午後12時にソウルアサン病院で亡くなられました。享年91歳でした。

ハルモニのご冥福をお祈りします。


※写真はハルモニ宅に訪問した青年ナビたちとの一枚です。photo_2016-02-20_22-56-16.jpg


訃報 | 20:13:12
【追悼】チェハルモニ
韓国挺対協より訃報が届きました。
これでご存命のハルモニは45人となりました。




日本軍「慰安婦」被害者チェハルモニが
2月15日20時29分に亡くなりました。

ハルモニは1926年に生まれ、困難な家庭状況のもと奉公に出て暮らしました。
16歳のときに日本の工場で働かせてやるとの就業詐欺にだまされ
約4年間日本軍性奴隷生活を強いられました。
母親に挨拶だけでもしたいと訴えましたが
代わりに伝えると無理やり連れ去られました。
解放後に船に乗って故郷へ帰りました。

貧困と性奴隷生活で生じた病気によって苦痛の生活を送りました。
昨年から全身に強烈な痛みを感じながらも耐え続け
最近入院した療養病院で息をひきとられました。


ハルモニが重い荷を降ろし
安らかに休めるよう冥福をお祈りください。

日本軍「慰安婦」被害者は45人となりました。

韓国挺身隊問題対策協議会

訃報 | 07:07:55
【追悼】陳桃さん
 1月11日午後9時頃、台湾の日本軍「慰安婦」被害者の陳桃さんが亡くなりました。
陳桃さんは1922年生れ。93歳でした。
陳桃さんは、アンダマンにつれていかれ、そこで元日本軍の「慰安婦」にされました。
アンダマンでは自殺未遂をするなど辛い日々を生き延びて、台湾にようやく帰ってからも生きて行くための職を求めて台湾を転々とするような暮しでした。
1999年、東京地裁に提訴した裁判の9人の原告の一人です。
陳桃さんは何度も来日され、証言をして、「私は金はいらない、日本の国が謝ってくれれば私は許すよ」と訴え続けてこれられました。
年末に日韓外相会談での「合意」があり、1月5日には台湾政府は日本政府に対して、被害者への正式な謝罪、賠償、尊厳と名誉の回復、生活支援の4項目を求めましたが、日本政府は「交渉する気はない」とあっさり無視しました。これは日韓「合意」が口だけの謝罪であり、日本軍「慰安婦」被害者に対してなんにも悪いことはしていないという認識の表れとしか判断できません。
そしてその6日後に陳桃さんは逝ってしまわれました。
どれほど無念だったことか!
お金ではなく謝罪、名誉回復を求めているということを、私たちは日本政府に分からせることができないままこの日を迎えてしまったということが、本当に申し訳なく思っています。
ごめんなさい、陳桃アマ。
そして、ありがとうございました、アマ。
被害者が亡くなっても、日本政府に「悪いことをした」を理解させる日まで、闘いを諦めません。それがこれまで闘ってこられた陳桃さんの無念に応える、ただひとつの方法だからです。
合掌。

(だい)

2012-12-08-11,アジア連帯会議in台湾 376 
(写真は2012年に台湾で開催されたのアジア連帯会議でのお姿です。)


訃報 | 11:01:33
【追悼】チェ・ガプスンハルモニ
挺対協からまたしても訃報が届きました。
日本の人にもなじみのある、カプスンハルモニです。
「ハルモニたちの時間は刻一刻と過ぎていきます。日本政府は一日も早く公式謝罪し法的賠償することで、苦痛を受けているハルモニの心を少しでも軽くしなければなりません。」
全くその通りです。
今生きているハルモニのためにも、そして無念のうちに亡くなったハルモニのためにも。諦めるわけにはいきません。(だい)




皆さま

日本軍「慰安婦」被害者チェ・ガプスンハルモニが
12月5日午前0時56分に亡くなられました。

ハルモニは
1919年に全羅南道クレで生まれました。
15歳のときに日本の巡査が父親を捕まえにきましたが
8人家族で父親が連れていかれれば生計が成り立たないと
変わりに長女のハルモニが連れていかれることになりました。
全州を経て満州の牡丹江まで連行され
日本兵だけがいる部隊で慰安婦生活を強いられました。
部隊が移動するたびにあちこち連れて行かれ
8月15日に解放を迎えた後
3~4年間さまよったあげく
歩いて故郷のクレにたどりつきました。

ハルモニは長い間老衰で病院に寝たきりでした。
「罪を犯さず生きなければならない」と言われていましたが
罪を犯した人々から謝罪も受けられずあの世に逝かれてしまいました。
ハルモニ、つらかったことは忘れあの世で安らかにお眠りください。

日本軍「慰安婦」生存者は46人となりました。
ハルモニたちの時間は刻一刻と過ぎていきます。
日本政府は一日も早く公式謝罪し法的賠償することで
苦痛を受けているハルモニの心を少しでも軽くしなければなりません。

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訃報 | 23:03:34
【追悼】張先兎さん
山西省・明らかにする会より訃報が入りました。

今、日本政府と韓国政府との間で「慰安婦」問題が、政治的な懸案となっています。日本政府は日本軍「慰安婦」問題を勘違いしているとしか思えません。

日本軍「慰安婦」被害者は、韓国にだけいるのではありません。日本は張先兎さんのような被害者が、中国大陸にたくさんおられるということを、意図的に忘れています。

私たちは張先兎さんの死に、日本軍「慰安婦」問題を日韓関係に矮小化させることなく、問題解決を訴え続けることを誓います。(だい)




中国山西省盂県在住の張先兎さんが11月12日に亡くなられました。

張先兎さんは、1926年生まれ、享年89歳でした。
山西省盂県で日本軍より過酷な性暴力被害を被り、日本政府を訴えて裁判を起こした原告(三つの裁判で原告は16名)の最後の生存者でした。
本年8月の現地訪問でお見舞いに伺ったのが最後となりました。肺気腫の持病があり、夏はいつも呼吸が苦しい張先兎さんでしたが、今夏は特に苦しそうで心配されました。
盂県の病院は入院には付き添いが必要なため、大娘は入院を拒み自宅で療養されていました。
2年前に長男に先立たれた後はすっかり気力を無くされ、お会いする度に「私よりも先に息子が亡くなったことが辛い」といつも涙を流されていました。
纏足を施された小さな張先兎さん、日本軍による被害によって翻弄された辛い人生、それでも生き抜いて闘ってこられた強さに、私たちは訪中する度励まされてきました。
私たちが支援してきた原告の被害女性は全員が亡くなりました。私たちは、解決を願いながら亡くなった大娘たちの無念の気持ちを胸に、遺志を受け継いでいきたいと思います。

<張先兎さんの被害>
1941年の旧正月、山西省盂県西煙鎮を急襲した日本軍に捕まり、河東村の日本軍拠点に連行され監禁された。当時、張先兎さんは新婚で、年下の夫とは夫婦関係もなかった。纏足のために歩けない張先兎さんは担がれて山上の拠点に連行され、連日性暴力を受けた。

訃報 | 15:47:49
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