【追悼】黄有良さん


最後の慰安婦訴訟原告死去 中国海南省の黄有良さん
 

14日付の中国海南省(海南島)の地元紙、南国都市報によると、中国人慰安婦による対日損害賠償訴訟の原告だった黄有良さんが12日、同省陵水リー族自治県の自宅で病気のため死去した。中国人元慰安婦による対日訴訟の元原告としては最後の存命者だった。同紙は1927年生まれで享年90歳としているが、満年齢ではない可能性もある。
 黄さんは旧日本軍の慰安婦にされたとして2001年、日本政府に損害賠償を求め、同省の女性7人と東京地裁に提訴。一審、二審ともに旧日本軍による女性らへの監禁や暴行を認めたが、請求権は失われたなどと判断し訴えを退けた。最高裁も10年、上告を棄却し、元慰安婦による他の対日訴訟と同様に敗訴が確定した。
 同紙によると、黄さんの死去で中国本土の元慰安婦の存命者は14人となったが、いずれも対日訴訟の原告ではなかった。(共同)
スポンサーサイト

【追悼】金君子ハルモニ

7月23日、午前8時、京畿道広州ナヌムの家に暮らしていた

日本軍性奴隷被害者金君子ハルモニが亡くなられました。

 

1926年に平昌で生まれたハルモニは

17歳で日本軍に連行され苦痛を経ました。

1998年からナヌムの家で暮らしていましたが老衰で亡くなられました。

 

今年に入って二度ナヌムの家を訪問したときも体調がよくなく

みんなが集まるリビングに出てくることもできないハルモニの部屋に会いにいきました。

うれしそうに迎えてくれ、おきあがっていろいろな話をきかせてくれました。

笑いながらまた来なさいと手を振ってくれたハルモニ。

これからは苦痛や痛みをすべて忘れ、安らかにお眠りください。

金君子ハルモニの冥福をお祈りします。

 

韓国挺身隊問題対策協議会

【追悼】陳亜扁さん

5月11日に日本で海南島裁判を闘われた陳亜扁さんが亡くなられたというニュースに接しました。

私たちはまた一度、被害者に真摯に謝罪する機会を失いました。

安倍政権は被害者の死をどう受け止めているのでしょうか?

「朴槿恵大統領に謝ったからもう謝罪しない」

「被害者への謝罪の手紙など毛頭考えていない」

そう言い放っていた安倍首相。まさか笑っているのではないでしょうね。

陳亜扁さん、ごめんなさい。私たちはあなたためにいま何ができるのか、考え、行動します。(だい)

http://www.recordchina.co.jp/b178072-s0-c10.html

元慰安婦が死去、過去に日本を訪問し謝罪と名誉回復を訴え―中国

12日、南海網によると、中国海南省に住む旧日本軍の元従軍慰安婦女性、陳亜扁さんが11日早朝、同省陵水黎族自治県の老人養護施設で死去した。
2017年5月12日、南海網によると、中国海南省に住む旧日本軍の元従軍慰安婦女性、陳亜扁(チェン・ヤーピエン)さんが11日早朝、同省陵水黎族自治県の老人養護施設で死去した。90歳だった。 

陳さんは1927年12月生まれ。42年春、14歳で従軍慰安婦にされ、旧日本軍が管轄する複数の慰安所で4年に渡って慰安婦として働かされた。45年8月、日本の敗戦を受けて慰安所から逃げ出し、親戚の家にたどり着いたという。解放後に結婚したものの、慰安所での生活がたたり、8度にわたって流産。9度目の妊娠でやっと女の子を授かった。夫は76年に病死し、その後娘と暮らしていた。 

陳さんら同省の元慰安婦女性8人は01年7月、日本を訪問。日本政府に対して謝罪と名誉回復を訴えていたが、請求は棄却された。陳さんの死により、同省に残る元慰安婦女性は1人になった。(翻訳・編集/大宮)

【追悼】陳蓮花阿媽

12月の「アマ・ミュージアム」開館式のときにはお元気そうに挨拶されていました。元気そうに見えただけなのかもしれません。それだけに哀しさが募って仕方ありません。

あなたの生きた人生を、私たちは忘れません。

台湾の元「慰安婦」裁判を支援する会からの訃報を転載します。

みなさま
残念な、悲しいお知らせをしなければなりません。

台湾の陳蓮花さんが今夜2017年4月20日、午後8時頃お亡くなりになりました。

昨年の12月10日の「阿媽の家」オープンには元気な姿を私たちに見せてくれたので、そのとき、開館式に参加してくださったみなさまから声をかけてくれたかたもいたと思い、お知らせいたします。
開館式以後、台湾の正月が終わった頃から体調をくずし、3度ほど手術をしました。

4月13日、ICUに入っている陳蓮花さんにお会いしてきましたが、チューブが口に入っており、呼びかけるとうっすら目をあき、かすかにうなずく様子がみられましたが、言葉を交 わすなどはほど遠い状態でした。

陳蓮花さんは、1924年生まれ、フイリピンで看護助手を募集しているといわれ、セブ島で「慰安婦」被害を受けました。

米軍の攻撃を受けたりしながらセブ島に到着。台湾人兵士に「どうしてきたのか」と聞かれ、「看護婦の仕事をしに」といったら「看護婦じゃない、慰安婦だ」と言われましたが、「慰安婦」の仕事とは何かわからなかったといいます。
やがて米軍の艦砲射撃がひどくなり、山中へ逃げ込んだりしますがこの逃避行の中で台湾から一緒に来て仲良くしていた女性が亡くなり、彼女の爪や髪を切って持ち帰りました。帰国してからも彼女の身内を見つけられなかったため、その後も蓮花さんはその人を弔い続けたといいます。

日本降伏後、米軍の捕虜収容所で、最初にあった台湾人兵士が蓮花さんを探しに来て奇跡的に再会し、やがて台湾に帰ってから2人は結婚します。
帰国してからも経済的には苦しく、洋裁などで生計をたてました(蓮花さんは、ワークショップに参加するときなど自分で縫ったという洋服を着ていつもおしゃれでした)。

蓮花さんは、阿媽たちのワークショップ等にはいつも参加していましたが、公に名前や顔を出すのはずっと後のことでした。
なぜ、顔や名前を出すことにしたの?と聞いたことがあります。蓮花さんは「もう年をとったからね。いいんだよ」といいました。

蓮花さんが初めて大勢の人を前にした証言は、日本の京都での証言集会の時でした。
ときおり、日本語でカンポウシャゲキと表現し、そのすさまじさを「パラパラパラ」と身振り手振りで語りました。そして泣きました。なるべく泣かないように毅然としていた蓮花さんが泣きました。


気強く、信仰深く生きてきた蓮花さんの旅立ちの途がどうぞ平安でありますように・・・。
 
蓮花さん、私たちはあなたを忘れません。

【追悼】李順徳ハルモニ

みなさま

大変悲しいおしらせをしなければなりません。


4月4日午前7時30分、日本軍「慰安婦」被害者の中で最も高齢だった李順徳(イ・スンドク)ハルモニが永眠されました。
享年100歳でした。

1918年に全羅北道金堤(キムジェ)で生まれたハルモニは、1934年17歳の時に就労詐欺によって慰安所に連れていかれて以降、満州や上海を転々としました。
日本軍による暴力で頭や胸、臀部などを靴や足で蹴られたり、刀による傷を受け、後遺症で目がよく見えないなど、体と心に負った深い傷は生涯ハルモニを苦しめました。
1945年、解放後に韓国に帰ってきましたが、両親は病で亡くなっており、以降、家政婦などをしながら生きてきました。
1990年以降、「慰安婦」被害者の名のり出によって「慰安婦」問題が社会に提起されると、自らも太平洋戦争犠牲者遺族会を通じて申告、1998年には関釜裁判の原告として日本政府を相手に訴訟を起こし、法廷で証言するなど、解決のために行動されました。

李順徳ハルモニのイメージフラワーは寒い冬にも枯れない椿で、「椿ハルモニ」とも呼ばれました。
ハルモニは麻浦区にある「慰安婦」被害者の共同施設である「平和のウリチプ」で暮らしていましたが、2014年6月からは高齢のために近くの療養病院に入院されていました。
ソウル西大門区(ソデムング)の延世大学セブランス病院葬儀場に置かれた焼香場には市民や学生、与野党議員、ソウル市長など多くの人々が訪れ、お見送りをしました。

6日午前に出棺予定です。

韓国の生存被害者は38名となりました。

【追悼】パク・チャスンハルモニ

中国大陸に残されたハルモニは、本当は韓国に帰ったハルモニより多かったのではないかと思っている。そのくらい、敗戦後に放置されたハルモニたちの絶望は深かった。そんなハルモニがまた一人亡くなられた。合掌。(だい)

中国湖北省に暮らしていた日本軍「慰安婦」被害者パク・チャスンハルモニが

2017年1月18日午前7時30分に亡くなりました。

 

1923年に生まれたハルモニは

家が貧しく伯父の家にあずけられ、酒を売る丁稚奉公をされました。

そうしているうちに中国へと売られ

湖南省、南京などで日本軍性奴隷にされ苦労しました。

解放後、日本軍は武漢の日本租界地で日本軍「慰安婦」を集めましたが、

日本軍の監視がゆるんだすきに逃げ出しました。

「慰安婦」生活をしたことをとても恥ずかしいことだと故郷に帰ることは考えず

そのまま中国に残りました。

昨年、中国湖北省にハルモニを訪問したとき、ハルモニは韓国語をすべて忘れていましたが

故郷はどこかとたずねると全羅南道羅州だと韓国語でこたえ、アリラン、豆満江などを歌われました。

「朝鮮は大丈夫かい?」と故国の心配をしていたハルモニ。

健康状態が急に悪化し、今日の午前に目を閉じられました。

ハルモニ、これからは苦痛をすべて忘れ、故郷の心配もせず、

安らかにお眠りください。

パク・チャスンハルモニのご冥福をお祈りします。

韓国挺身隊問題対策協議会

【追悼】朴淑伊ハルモニ

皆さま

慶尚南道の南海に暮らしていた朴淑伊ハルモニが
12月6日午後8時40分に亡くなられました。

1922年に生まれたハルモニは
話し上手で日本軍「慰安婦」問題を広く知らせるため数々の講演も行ってこられました。
何度も体調を崩しましたが、再び起き上がられました。
最近、健康状態が悪化し、心配していたところ、
今日の午前には重患者室から一般病棟に移られたとの知らせを受けましたが、起き上がることができず逝ってしまわれました。
2~3ヶ月前に訪問したとき、息ぐるしく話すことさえ困難な状態でしたが、
日本は早くハルモニに謝れ、間違っていたとわびろ、そして再び悪いことをするな、
そう言われたハルモニ。
これからは苦痛も痛みもすべておいて、安らかにお眠りください。
朴淑伊ハルモニのご冥福をお祈りします。

韓国挺身隊問題対策協議会

1611.jpg

【追悼】ユ・ヒナムハルモニ

ナヌムの家で暮らす柳喜男ハルモニの訃報が入りました。

昨年12月28日の日韓合意を「被害者の同意がない」と批判したことでも、ご存知の方が多かったのではないかと思います。

韓国で登録されている被害者は40人。今年に入ってから6人も亡くなられました。
被害者の過ごす時間が最晩年であるこの時期に、あのような合意がなされたことは本当に犯罪的だと、改めて思い知らされます。

以下、韓国挺対協からの訃報です。
(だい)




皆さま

ナヌムの家で暮らしていたユ・ヒナムハルモニが
2016年7月10日午前8時23分に亡くなられました。

ハルモニは
1928年忠清南道で生まれ
15歳になった1943年に下関に連行され
終戦まで日本軍性奴隷として苦痛を受けました。
解放後も生計維持のために辛い労働をし
2012年になって京畿道広州にあるナヌムの家に入居されました。

ハルモニのご冥福をお祈りください。
韓国の生存者は40名になりました。

【追悼】韓国被害者逝去

韓国挺対協より訃報が届きました。
亡くなられても、名前が公表できない。これが日本軍「慰安婦」問題なのだと、改めて考えさせられます。
私たちはこのような被害者のためにも、日本政府を追及していかなければなりません。諦めることなくがんばりたいと思います。(だい)


皆さま
昨晩(6月22日)
ひとりの日本軍「慰安婦」被害者が亡くなられました。
ハルモニの冥福を祈り
ハルモニの人生に大きな苦痛を与えたにもかかわらず
反省しない日本政府の犯罪を明らかにし
責任を履行するよう
挺対協は最後まで努力します。
ハルモニが安らかに眠れるよう祈ります。
家族の意向により名前や写真は公開できません。

【追悼】イ・スダンハルモニ とコン・ジョミョプハルモ二

韓国挺対協より訃報が届きました。同時に2通も。

お一人はイ・スダンハルモニです。写真家の安世鴻さんが撮られている写真が印象的で、ご記憶の方も多いと思います。

もうお一人はコン・ジョミョプハルモ二。97歳だったそうです。



イ・スダンハルモニは中国大陸で「見つかり」ましたが、同じように中国大陸や東南アジアで置き去りにされ、歴史に埋もれた被害者は、もっともっと多かったであろうことを想起すると、心穏やかではられません。日本政府が「最終的不可逆的に解決した」などと言って喜んでいる今の情勢下にあっては、なおさらのことです。

安倍政権が被害者の尊厳を傷つけている限り、これは過去の問題ではありません。



明日から、韓国ソウルでアジア連帯会議が開催されます。解決のための糸口を世界中の被害者・支援者と話し合い、今日本で何が必要かを確認してきたいと思います。(だい)










皆さま



もうひとりの日本軍「慰安婦」被害者が亡くなられました。

中国に暮らしていたイ・スダンハルモニが

17日午後に他界されました。



1921年に平安南道で生まれたハルモニは

19歳のときに満州にある工場へ行けばお金を稼げるとの言葉にだまされ

中国黒竜江省に連行されました。

思いもしないところに連行されて刀をもった日本軍の姿を見て

とても恐ろしく逃げようとしましたが捕まりひどい目にあわされ

慰安所でつらい生活を送りました。

戦争が終わり故郷に帰りたくて何度も手紙を送りましたが

結局故郷には帰れず中国で暮らしました。



母国語をすべて忘れてしまい

ハルモニの胸の奥に埋まった無念を母国語で表現できないことを悔しがっていたと聞いています。

幼いころに他国につれていかれ最期まで故郷の地を踏めず亡くなったイ・スダンハルモニ。

これからはすべて忘れ安らかに眠ってください。

ハルモニの冥福をお祈りします。






皆さま



全羅南道海南に暮らしていたコン・ジョミョプハルモ二が今日(5/19)午後5時10分に亡くなられました。



ハルモニは1920年に全南務安で生まれ

16歳(1935年)のときに職業を紹介してやるとの言葉につれられ

上海、ハルピンなどで24歳を迎える1943年ごろまで

日本軍「慰安婦」として惨く苦痛の人生を送りました。

1945年に海南にもどり

47年に結婚しましたが夫は8年後に他界し

夫との間に生まれた息子を一人で育てました。



ハルモニは2002年から挺対協活動に参加しはじめ

金剛山人権キャンプや済州島人権キャンプなどに参加し

「こんな世界もあったんだね」と子どものように喜ばれました。

長い間の農作業によって腰が90度に曲がってしまった体で金剛山に登っていたハルモニの姿

済州4.3虐殺犠牲者の話を聞いてため息をついていたハルモニの姿が

今も目に浮かびます。



2年間の入院生活でも希望を忘れず

海南地域で日本軍「慰安婦」問題解決のため活動する[コン・ジョミョプハルモニとともにする海南ナビ]会員がたずねると

「何度会っても恋しくてまた会いたくなるよ」とうれしそうにされました。

そうやって人々の心をつかみ人情を分かち合いました。



2ヶ月前から病状が悪化し

長い闘病生活の末、ハルモニは97歳の人生を終えました。

ハルモニの逝く道が、差別のない、性暴力被害も戦争の恐怖もない世界であることを切に願います。



プロフィール

日本軍「慰安婦」問題・関西ネットワーク

Author:日本軍「慰安婦」問題・関西ネットワーク
わたしたちは日本軍「慰安婦」問題解決のため、関西を中心に活動しています。

メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

カウンター

検索フォーム

QRコード

QR