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日本軍「慰安婦」問題・関西ネットワーク

Author:日本軍「慰安婦」問題・関西ネットワーク
わたしたちは日本軍「慰安婦」問題解決のため、関西を中心に活動しています。

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演劇『白い花を隠す』

演劇『白い花を隠す』を観ました。石原燃作、小笠原響演出、Pカンパニー公演。女性国際戦犯法廷のNHK番組改ざん問題をテーマにした演劇です。下請けの番組制作会社を舞台にお話が進みます。

序盤、男女二人のディレクターの口から、戦犯法廷の意義が熱っぽく語られます。被害を受けた女性が口を開くことの重たさや衝撃、今なお続く戦時性暴力を克服するためにもこの戦犯法廷が重要だということ、そして責任者処罰の重要性がしっかりと描かれていました。被害者に寄り添いたいという姿勢をしっかりと描けていることで、「慰安婦」問題という難しいテーマにも関わらず、物語に深く感情移入できました。

物語の中盤、重要なファクターとなっている女性が、男性ディレクターに対してこう語りかけるのが、とても印象的でした。

「死者の声を聞きましたか?」

日韓合意以降、わたしたちは死者の声を特に意識するようになりました。生存している被害者は少なく、生きている被害者も病床にいたり認知症で物事の判断ができない人が多く、あのハルモニならこんなときなんと言っただろうか、あのロラならどのような行動をしただろうかということをよく思います。

2000年の戦犯法廷のときに、世界各地から被害者が東京に来て証言を行いましたが、その時ですら証言する被害者の背後には多くの亡くなられた被害者がいました。

裁きは生者のためだけにあるものではありません。

もちろん「合意」とやらも。

ディレクターのふたりは被害者に寄り添おうとして、しかしその熱い思いはNHK上層部の介入によってズタズタにされていきます。その背後に中川昭一(当時経産相)と安倍晋三(当時官房副長官)の圧力があったことは周知の事実ですよね。物語にはキャラクターとしての中川・安倍は登場しません。でも現場での焦燥と、NHKからの指示に従って番組を改変せざるを得なかった人の思い、そしてそのような改変に手を染めることのできない人の思いが、辛いほど伝わってきました。

制作から手を離し素材をNHKに渡すくらいなら、せめて、それでも、なんとか、すこしでもマシな番組にしたいという人の思い。ましてやNHKから仕事を受注する会社としては、食べていくために仕方がないのだという思い。

だがしかし、改変に手を染めることがジャーナリズムの道に反することであり、そしてなによりも被害者の気持ちを裏切っていくのだという思い。

結局は、「せめて、それでも、なんとか、すこしでも……」の積み重ねで今の2017年があるのだということを実感しました。

女性国際戦犯法廷はヒロヒト天皇らの戦争責任を裁きましたが、日本社会はそれを無視することで不処罰を貫きました。マスコミは報道しないことで、唯一報道しようとしたNHKは安倍の圧力に屈することで、そしてこの制作会社も「食べるために」改変に手を貸すことで、不処罰を貫いたのです。そして不処罰を貫いた結果の、犯罪的な安倍晋三を内閣総理大臣にまで支持し続けた結果の、日韓合意です。戦争責任はヒロヒト天皇らにありますが、不処罰の責任は、不処罰を貫くことで被害者たちをいまもなお傷つけている責任は、私たちにあります。

とても考えさせられる演劇でした。

明日も伊丹アイホールで、2月18日~3月5日はシアターグリーンBOX in BOX  THEATERで上演されます。みなさまぜひご覧になってください。

(だい)



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文化 | 21:19:47
琉球放送『 Born Again~画家 正子・R・サマーズの人生~』 

琉球放送『 Born Again~画家 正子・R・サマーズの人生~』 を観ました。

正子・R・サマーズさんは沖縄に生まれ、戦後米軍人と結婚してアリゾナに渡り、後半生を画家として暮らしました。昨年9月に亡くなられたのですが、その人生を手記にしたためたため、注目を集めました。その波乱の人生には本当に驚かされました。

正子さんは4歳で遊郭に売られ、戦争が終わるまでジュリとして生きました。小さい頃から芸事を身につけ、年頃になってからは売春の仕事に従事するようになります。沖縄戦前夜、日本軍が中国戦線からたくさん送り込まれてくると、沖縄のジュリたちは「慰安婦」として日本軍の中に組み込まれていきました。正子さんは多くの兵士の相手をするようなことは免れたらしいのですが、正子さんの周囲のジュリは多くの兵士の相手をさせられることになり、「地獄のよう」と正子さんはおっしゃっていました。一時は沖縄の32軍司令部壕にもいたそうです。

沖縄の遊郭制度は日本の遊郭制度とはまた違い、女性だけの社会です。廊主を「オンマー(お母さん)」と呼び、擬似的な親子関係の中で形成されています。それでも奴隷制度であることは変わりありません。

わたしがとても印象的だった番組の中のエピソードは、戦後、米軍の保養ビーチで働いている正子さんのところにオンマーが来て、「まだ借金が残っている」と那覇の遊郭に戻ることを強要したことでした。正子さんは米軍の施設で一生懸命お金をため前借金を返済するのですが、結局自分が元ジュリであり人々から差別されていることがとても苦しかったと証言されていました。そしてそれが米軍人と結婚してアメリカに渡ることを選択する大きな原因となったようでした。

「性奴隷ではなく売春婦だった」というのは、「慰安婦」問題を否定する言説としてよく語られます。正子さんの証言の中ではジュリが「慰安婦」制度に組み込まれてとても過酷な状況に追い込まれたということが語られましたが、しかし彼女が生まれ育てた地から逃げ出す動機となったのは、彼女がジュリであったという過去から逃れるためでした。「売春婦だったから問題ない」という言説は、正子さんのような当事者にとってどれほどひどい、心を傷つける言葉であるか。

そもそも「性奴隷ではなく売春婦だった」という否定派のスローガン自体が矛盾です。正子さんのように貧困の中で売られ、前借金で縛り付けられ売春を強制されることは、性奴隷制度そのものです。

番組を観て、現実にその歴史を生きてきた人が証言をしているということに、本当に心が震えました。そして一人ひとりの苦しみにしっかりと向き合うことからまずは始めなければならないと、あらためて心に刻みました。

多くの人にこの番組をみてもらい、まずは被害者と向き合うことの大切さを知ってほしい。日韓「合意」で「慰安婦」問題は日韓問題のような空気がありますが、そんなことはありません。アメリカに移り住んだ沖縄の被害者がいたということをもっともっと広めたいです。

(参考)

沖縄タイムス記事

プロデューサー原良和さんのフェイスブック

(だい)



文化 | 14:49:54
マルセーラ・ロサイア著『サバイバー 池袋の路上から生還した人身取引被害者』

マルセーラ・ロサイア著『サバイバー 池袋の路上から生還した人身取引被害者』(ころから)読了。
息もつかせぬ展開に飽くことなくほぼ1日で読み終わった。体験談というよりは、何かの小説を読んでいるようだった。
貧困の中に暮らしていたコロンビアの女性が、「ダンサーで働けば貧困から脱出できる」と欺されて不法入国し、ヤクザの支配する世界で売春婦をさせられる……一言で言ってしまえばそういうお話だが、滞日18ヶ月の間にこれでもかと言わんばかりの事件が起こる。舞台は池袋の路上から木更津のピンサロ、場末のストリップ劇場、そして横浜の路上に。その間主人公は外国人ばかりが集まるクラブに出入りしたり、ヤクザの大ボスと恋愛関係に陥ったり、強盗事件に関わったりと、息をつかせぬ展開が続く。これは本当に実話なのだろうか、誰か優秀な文筆家の創作ではないかと錯覚に陥ってしまう。しかし、仮に主観を交えた誇張や創作が幾分あったとしても、これは紛れもなく現実なのだ。
この本は、奴隷制度の本質を的確に教えてくれている。
女性の全てを支配するマニージャ(マネージャー)の存在。マニージャは最初に彼女にこう言った。
「1、毎日2万円を支払うこと。
2、働く許可を得るために外でヤクザに1万円払うこと。
3、この家の家事を手伝うこと。それで部屋代と食事代の支払いとする。
4、支払いができない場合、借金の利子がつき始める。
5、今の借金は500万。おおよそ2億ペソだ。(そんなのすぐに支払えるさ。ペソに換算しないことだね。それをしたら安眠できなくなるよ。あんたのパスポートはあたしが預かる。もし金を払わなくて逃げようとしても、コロンビアの家族を探し出して、あんたが現れるようにご挨拶させてもらうからね、分かったかい?)
6、振る舞いが悪い場合、あんたをヤクザに売りつける。ヤクザはあたしみたいに優しく扱ってくれないよ。それも借金が倍になるさ」
そしてマニージャは借金や暴力で女性を肉体的に支配するだけでなく、精神までをも支配した。マニージャの目を盗んで友人とクラブに遊びに行っても、借金返済のために友人の持ちかけた強盗計画に関わりかけた時も、彼女はマニージャの精神的な支配に苦しんでいた。彼女に自由は存在しない。友人と笑うことはあるし、ヤクザと恋に落ちることもある。でもそれは彼女が奴隷でないということにはならない。彼女がマニージャの所有物であるということには変りがない。彼女が奴隷でなくなるためには、借金を払い終わるか、マニージャを殺すしかない。
そもそも、彼女は借金を返すために「仕事をしている」と思っている。借金は借金、仕事は仕事であるにもかかわらず、彼女は借金で支配され、それを返済するために彼女はマニージャの言うことには従順でなければならないし、彼女の用意した売春業に従事しなければならないと思っている。そしてそれに反したら、ヤクザに売られるし、家族が殺されるとも思っている。そのような「労働契約」など無効でしかないのだが、抵抗する手立てがない。抵抗する精神さえ奪われる。
「生活とは呼べない生活、中身のない私の世界、尊厳も愛もなく、自尊心やアイディンティティまで失ってしまった。自分が存在しているのかも分からなかった。自分では選ばないような服を着て、したことのない様な化粧をし、厚底のヒールを履き、私の好みからかけ離れたミニスカートをはいていた。髪はくすんで色が褪せ、使いすぎた膣は乾ききっていた。それに、性欲というものが失せた。女性であることを捨てていた。愛されていると感じることがなくなってしまった。21歳の女性にとって、その感覚は大切なことだった。私はトランクの中に夢をしまい込んでしまった。決して自分で受け入れることは出来ない人格……しかし、与えられてしまった以上その人格を保ち続けるしかなくなっていた。」
彼女・マルセーラの置かれた境遇が、韓国や台湾の日本軍「慰安婦」被害者ととても似通っていることに、すぐに気づく。
右派は「売春婦だった」「自由があった」などと主張し、被害者を否定する。その文脈で行けば、マルセーラも「売春婦だった」し「自由があった」。地獄の底で僅かな自己肯定を見出すためにヤクザの親分と恋愛関係に陥ったり、自由のために強盗を企てたりするが、それでも彼女は自分の仕事を辞める自由はなかった。10日に一度の
マニージャへの支払いを逃れる自由はなかった。自分の着たい服を着る自由さえなかった。
そして自分が性奴隷であった、人身取引の被害者であったと気づくのは、いつも解放されたあとなのだ。
彼女が覚えた最初の日本語が「ニマンエン」……自分の値段が最初に覚えた日本語だなんて、絶望しかない。
米国務省が発表する人身取引年次報告書にて、2004年に日本は「人身取引の被害者の最終目的地になっている」「人身取引犯罪をなくすための最低限の取り組みが見られない」と指摘され、「第2ランク監視対象国」と評価されている。その状況が2016年の今も、変わっているとは思えない。
かたや日本では「被害者ではなく売春婦だ」と主張し、日本軍「慰安婦」被害者を貶めようと躍起になっている人たちがいる。そして当の日本政府も「性奴隷という言葉は適切ではない」と、臆面もなく国連などで主張している。恥ずかしい限りだ。
もし韓国のハルモニや台湾のアマたちが性奴隷でないのなら、人身取引犯罪の被害者でないのなら、辛い苦しみを乗り越えようとこの本を書いたマルセーラは被害者ではないのか?
被害は過去のものではない。今も街角に立つたくさんのマルセーラにも、そして日本政府から謝罪を受けることもないまま最晩年を迎えているハルモニやアマにも。
現代の奴隷制度について考える最良の一冊です。そしてなぜ今、日本軍「慰安婦」問題を解決させなければならないかを知るためにも。
(だい)

文化 | 11:42:42
映画『阿媽 おばあさんの秘密 ~台湾籍「慰安婦」の証言』
映画『阿媽 おばあさんの秘密 ~台湾籍「慰安婦」の証言』(1998年)を観ました。台湾の被害者たちの証言をまとめた、ドキュメンタリーです。
とても重たい映画でした。もちろん被害事実そのものが重たいのですから当然なのですが、被害者たちが「50年間、親にも夫にも秘密にしてきた」「日本を恨んでいる、赦すことはできない」などと告発される姿を今日改めて目の当たりにすると、この20年間罪を認めず、誠意のある謝罪も賠償もしてこなかった日本政府の犯罪性を突きつけられるようで、とても辛くてたまりませんでした。
この映画には十数人の証言者がでてきますが、共通するのは、慰安所に入れられ被害を受けるまで、誰も自分が「慰安婦」とされることを知らなかったということです。
漢民族の被害者のほとんどは「食堂で働き口がある」などと騙され、ビルマや海南島やフィリピンなどに送り込まれました。拒絶すると殴られ、遠い外国で逃げ場もなく、何よりも当時の自分たちは年端もいかない年齢だったので従わざるをえなかったのだと言います。無事台湾に戻ってきても、その被害を誰にも言えなかったというのですから、その絶望はとてつもなく深いものだったでしょう。
一方、先住民族の被害者の多くは、自分の住む村々に駐屯してきた日本軍によって性暴力被害に遭っています。被害に遭った場所が自分の生活圏であり、周囲も自分の被害のことを知っている。閉鎖的かつ封建的な社会にあって、被害を受けることは、その後の人生もうしなわせるものでしかありません。ある被害者が、自分が被害に遭っていた洞窟(日本軍の倉庫)で証言をされている映像を観て、心が押しつぶされそうでした。
また映画の中で慰安所に関わった台湾人の証言も出てきますが、これを見ると「業者のせい」と主張することで日本政府の責任を免罪しようという企みも、全く事実に反しているとわかります。
日本政府は先日の日韓「合意」でも、日本軍の関与を認めていますが、これは「関与」なんて生易しいものではありません。直接的な加害行為・犯罪行為でなくて、一体何だというのでしょうか。
日韓「合意」を受け、台湾の馬総統は日本政府に対して同様の対応を求めましたが、菅官房長官は台湾政府とは交渉する気がないことを明言、バッサリと切り捨てました。このような態度でいる日本政府のどこに誠意があるでしょうか。日本政府が認めた「責任」とは一体何で、「おわび」とは誰に向けられたものなのでしょうか?
今こそ台湾をはじめとして、日本が占領支配した全ての地域にいる被害者の声に、耳を傾ける時です。(だい)


文化 | 18:02:29
映画『太陽がほしい』
班忠義監督の映画『太陽がほしい』を観ました。前後編合わせて3時間の大作です。山西省の「慰安婦」と呼ばれた性暴力被害者の20年をまとめたドキュメンタリーです。いまは亡くなられた被害者たちを今日改めて目の前にして、たくさんの思いを抱きました。
歴史を否定したい人たちは、被害者を個として見ようとしません。「20万人は嘘」「強制連行はなかった」なとど主張することで、あたかも「慰安婦」問題はなかったかのようにデマを振りまきます。しかし私たちにとって、被害者とは名前を持ったひとつひとつの人格です。10人いれば10通りの苦しみが、10万人いれば10万通りの苦しみがあるのです。
そしてこの映画は、万愛花さんや郭喜翠さん、劉面換さんなど、一人ひとりの犠牲者のどの生もかけがえのなかったものであり、そのひとつひとつを日本軍は奪っていったのだと教えてくれます。
これほど明らかな戦争犯罪がありながら、私たちは未だ日本政府を追及しきれず、「不可逆的」などと平然と言ってのけることを許していることに我慢がなりません。
先日、国連女性差別撤廃委員会の対日審査で杉山外務審議官は、「強制連行は確認できない」「20万人は裏付けがない」「『性奴隷』は事実に反する」などと言いましたが、この映画を観てもなお、同じことがいえるのでしょうか。
郭喜翠さんは性奴隷として監禁されている生活の間、便意もないのにウソを言って、陽の当たらないくらい慰安所からでて、トイレからそっと太陽を眺めていたそうです。このエピソードは映画のタイトルの出自にもなっていますが、この絶望を、安倍首相に、杉山審議官に、本当にわからせてやりたい。
そして、万愛花さんの亡くなられる直前の言葉が、本当に私の胸に突き刺さりました。万さんは、死の間際にあっても、日本政府を裁判で訴えることを考えておられたようです。
「謝罪してほしい。罪を認め、頭を下げて賠償をするべきです。裁判が続かないと日本の友人の顔に泥を塗ることになる。日本政府は見くびっている、日本の友人たちを。
最後まで闘う。政府に対して圧力をかけなければ。ここまで来たんだからやり抜く必要がある。私が死んでも鬼になって闘う。魂となって皆と共に闘う」
「被害者が生きているうちに、被害者が望む解決を!」と私たちは叫び続けてきましたが、今回の「合意」によって解決は遠のき、そうこうしているうちも被害者はひとり、またひとりと亡くなっていっています。裁判を闘った山西省の女性たちは、いまは誰もご存命ではありません。
今日、私たちは万愛花さんが信頼をよせた、日本政府を追い詰めるだけの力を持った「日本の友人」であるでしょうか?
時に落ち込み、絶望することはあったとしても、私たちは万愛花さんの「日本の友人」であり続けたいです。鬼神がそばにいてくれるだけの、価値のある私たちでありたい。
万愛花さんが鬼神となって私たちと共にいる、そういうこれからの日々でありたいと、決意を新たにしました。(だい)


文化 | 19:27:26
映画『鬼郷(クィヒャン)』
映画『鬼郷(クィヒャン)』を観ました。姜日出ハルモニの絵画から着想を得たという、日本軍「慰安婦」問題をテーマにした映画です。

慶尚南道の故郷から中国東北部の慰安所に連れて行かれた少女が、友だちと一緒になんとか生き抜いていこうとする、そういうお話です。ひとつひとつの出来事に「誰かの被害証言の中にこういうことがあったなあ」と思い、とても平常な心では観ることができませんでした。

しかし、この映画の素晴らしいところは、過去の描写のみにあるのではありません。巫堂(ムーダン)の養女である性暴力で心に深い傷を受けた少女が、過去と現代との依代になって、観ている人をぐっと画面に引き込ませ、これは過去の話ではないのだと教えてくれます。そう、これは今を生きる私たちの問題です。そして、胸の奥に沈殿した恨を解くことがどれだけ大切か、改めて考えさせる映画でした。

この映画は劇映画としてとても秀逸です。誤解を恐れず言えば、日本政府を糾弾するような政治的な映画ではありません。政治的なことを知らなくても受け止めることができるでしょうし、そういうふうに「感じる」映画です。
日本軍「慰安婦」問題をなかったことにしたい人たちは、「ありえない」「そんな証拠はない」と粗探しに熱中し、この映画を攻撃するでしょう。しかし、それは本当に「ありえないこと」ですか?
この映画では、被害者を日本兵が殺すシーンがあります。政治家も含め否定したい人は「そんな証拠はない」と主張していますが、明日をもしれぬ前線にあって、人間性を喪失した兵士が弱い立場の女性を陵辱し、殺害にいたるという行為は、「ありえないこと」ではありません。
百歩譲って兵士が被害女性を殺したことがなかったとしても、肉体的には殺さなかっただけ、精神の上では殺しているのも同じです。大勢の女性を慰安所に監禁軟禁し、拒絶する女性を集団でレイプしたのであれば、それは大量殺戮と何が違うでしょうか。
もしあなたが「ここまで残酷なわけがない」と感じるのだとしたら、加害者側と被害者側とでは、同じ事象でも見え方が全く違うのだということを知る必要があるでしょう。
そしてなによりも、劇映画とは、そういう想像力をたくましくして「感じる」ものなのです。

この映画は日本軍「慰安婦」問題だけではなく、普遍的なテーマを含んでいます。そういう劇映画だからこそ、この映画はきっと世界中で受け入れられるでしょう。韓国では興行的に成功するでしょうし、欧米でも高い評価を受けると信じています。
日本では?
それは私たちの、これからの課題です。
(だい)
鬼郷


文化 | 22:21:53
林博史著『日本軍「慰安婦」問題の核心』
 林博史著『日本軍「慰安婦」問題の核心』(花伝社)読了。この本は、林さんがこれまで発表した論文や講演録を合わせて編集したものであり、通読すると若干の読みづらさは感じるものの、歴史実証主義の立場から歴史歪曲攻撃にほぼ答えた内容になっている。

 この本は4部構成となっている。
 第Ⅰ部 問題の所在をめぐって
 ここでは本のタイトルにあるとおり、「核心」を、安倍首相や橋下元市長らの歴史認識を批判することを意識して展開されている。

 第Ⅱ部 資料に基づく日本軍「慰安婦」研究
 ここは林さんの真骨頂で、膨大な資料で、軍が主体となって慰安所を運営していたこと、具体的にどのような加害行為を行っていたのかを明らかにしている。

 第Ⅲ部 歴史史料隠蔽と歴史の偽造
 米英が解読した膨大な機密電報を紹介し、日本軍がいかに加害の隠蔽を図ろうとしたかにせまろうとしている。

 第Ⅳ部 米軍の性売買政策・性暴力
 米軍の性売買に対する政策を確認することにより、日本軍と違う点、共通する点をあぶり出している。

 私はこの第Ⅳ部が、もっとも興味深く読めたので、この章を中心に感想を記したい。

 橋下元市長や籾井NHK会長が「どこにでもあった」と言うとき、軍隊に性暴力はつきものだが、軍隊が組織的に、これほど大規模に、それこそ兵站から最前線まで慰安所を設置し、植民地から、占領地から女性を連行し監禁し強かんしたのは日本だけだったと、自信をもって言える。しかし他の国の軍隊が、この問題に対してどのような政策をとってきたのかは、勉強したことがなかった。
日本軍が日中戦争で慰安所制度を確立していった同時代、アメリカでは全く逆の政策を意図的に確立していったことに、私はとても興味を惹かれた。

 米軍は売春そのものを禁止していた。
 「基地周辺での赤線地区の存在を陸軍省は容認することはできない。(中略)この問題について唯一の実際的な政策は断固とした禁圧策である」(1917年)
 この政策は、性病の治療薬の開発やピューリタリズムの倫理観の後退を見た後でも、基本的には変わらない。兵士の売春宿の利用を押さえられずコンドームの推奨をすることはあっても、やはり今でも売春は認めていないし、ましてや管理売春などもってのほかだ。日本占領時に米軍はRAAを解散させたが、それも米軍の基本政策に基づいてのことだった。
 日本が慰安所を拡大させていた時期、米は「管理売春は性病を拡大させるだけ」と科学的に分析していた。日本軍は「性病を蔓延させないため」に管理売春を行ったが、それはさらに強かんを多発させ、最前線であっても占領地の住民女性を拉致監禁して「慰安婦」にしてもいいのだという意識を生み出した。米軍が科学的に考察して出した結論を、日本軍は本当に理解できていなかったのだろうか。
 吉見義明さんは日本軍が慰安所を設置した4つの理由の一つとして「日本軍の将兵に『性的慰安』を提供する」目的をあげていたが、これは私には一番しっくりする。そして橋下も籾井も「女をあてがっておけばいい」などという人権感覚の全くない考え方の持ち主だからこそ、「どこにでもあった」「沖縄の米軍はフーゾクを利用すべき」などと平気で言えるのだろう。
 もちろん米軍の性犯罪は戦時性暴力として現在でも問題になり続けている。それは日本軍「慰安婦」問題と共通する課題である。それを意識して読んだとしても、日本軍「慰安婦」問題とは特殊性のある組織犯罪であったと確信する。とても「どこにでもあった」と言えるようなものではない。

 「どこにでもあった」などと平気で言う人は、不勉強でも構わないと思っている人か、知った上で詭弁を弄しているかのどちらかだ。
不勉強でも構わないとか、詭弁を弄していると思われたくない人は、ぜひともこの本を読んで欲しい。
 もちろん、純粋に日本軍「慰安婦」問題を知る意味でも。日本軍「慰安婦」問題は、志を同じくする立場の人でもなかなか正しく理解されていないことも多い。私も理解しているつもりでいて、上に記したとおり、まだまだ知らないことも多かった。この20年で歴史研究は大きく進んでいる。現時点の到達点を確認する意味でも、この本を読むことは意味あるものと思う。(だい)



文化 | 09:52:25
中原道子著『歴史は墨でぬりつぶせないーアジアの歴史と女性の人権』
中原道子『歴史は墨でぬりつぶせないーアジアの歴史と女性の人権』(スペース伽耶)を読み終えました。

VAWW-RAC共同代表で早稲田大学名誉教授である中原道子さんは、日本軍「慰安婦」問題アジア連帯会議のたびにお見かけするのですが、発言がいつも鋭く、また「私は学者である前に一人の市民だ」と仰っているのを聞き、とてもかっこいい生き方の人だなと思っていました。今回、こうして講演録や書かれた原稿が一冊のブックレットにまとめられ読む機会を得たのですが、その思いは一層深まりました。

このブックレットはもちろん日本軍「慰安婦」問題を軸に編集されていますが、その内容というよりは、そこからかいま見える中原さんの「視点」に新鮮さを覚えます。
例えばグァムの話。グァムは日本が唯一占領したアメリカの植民地で、そこにも日本軍は慰安所を作り、グァムの女性たちを「慰安婦」にしていました。そういうところに「ルンルン気分で新婚旅行」に行けるかと問い、「沖縄に駐留している海兵隊が今度グァム島に移るということを、私たちは手放しで喜べますか?」と問います。
例えば公文書の話。公文書は男性が書くものだと言い、植民地の女性には満足な教育など施されなかったと指摘します。そして「だから『慰安婦』募集の新聞広告を見て、『わたし働きます』なんて言ってくる女性なんかいないです」と喝破します。「公文書だけで歴史は書けない」と。
そして天皇制。この問題に関して、中原さんの舌鋒は一層輝きを増します。「かれ(昭和天皇)は戦争については非常に深い知識を持ってますでしょ?」
「どうして国民のことを考えなかったのかと聞くのもわたしは酷だと思います。かれにとって、一番大切なことは皇統を絶やさないことで、そのほかのことは二の次三の次だという、そういう教育を受けてきていたと思います。でも支配者としての責任はありますよね。そういうことでわたし、天皇に対しては、許せないという気持が非常に強いです。」
そういう、悔しいかな日本社会ではタブーとされている重たい課題に触れていて、颯爽とこう言うのです。
「わたしは生涯一度でいいから共和国に住みたい。世襲の絶対的な存在のいない民主的な共和国、日本共和国というのに住みたいな、と思いますけれど、夢でしょうね。」

別に目から鱗が落ちるようなことをおっしゃっているわけではないのです。ただ、そういう言葉が自然に出てくることが、私にとっては驚きなのです。
日本軍「慰安婦」問題を私のような人間が語るとき、とても身構えて重たく語ろうとしてしまいます。それは間違ったことではありません。だって重たい課題なのですから。だけれども、中原道子さんがそれを語るとき、辛辣な内容であるにもかかわらず、とても等身大で、説得力をもって聞こえるのです。
安直な言葉でいうなら、ただただカッコイイのです。
戦争を肌で覚え、教科書に墨を塗ることで価値観が転回するのを感じ、現人神が自己保身に汲々とした権力者だと知る。それを身を以て体験したものにしかわからないリアリティが、中原さんの言葉に息づいているのだと思います。

そういう身体性を持つ中原さんが日本軍「慰安婦」問題の本質を語るとき、全くその通りだと理解している事柄でも、私には新鮮に聞こえます。
「この問題の本質は日本を含む東アジア、東南アジア、太平洋の国々に生きる少女・女性が、日本軍により、何年にも渡り奴隷状態におかれ、残酷な性暴力を受けたという事実です。一人一人の少女・女性が自らの意思に反して、長期間、監禁され、複数の男性との性交を強いられたことです。結果として、肉体も精神も、回復が不可能なほどの深い傷を負い、さらに戦後解放されてからも、社会的には人間として恥辱と差別の中で苦しい人生を生きなければならなくなりました。これほど残酷な犯罪があるでしょうか。」
全く、思想とは生き方の中にあると実感するのは、私だけでしょうか?
言葉は思想と行動に裏打ちされると感嘆するのは、私だけでしょうか?

これは日本軍「慰安婦」問題の、学術ではなく、思想を学ぶ一冊です。感受性豊かな世代に勧めたい貴重な「入門書」です。
ぜひともお読みください。(だい)


文化 | 22:19:30
VAWW-RAC編「日本人「慰安婦」 ―愛国心と人身売買と―」
 「戦争と女性への暴力」リサーチ・アクション・センター編「日本人「慰安婦」 ―愛国心と人身売買と―」(現代書館)を読み終えました。

 日本人「慰安婦」問題は棘のような存在です。日本軍「慰安婦」問題に関心のある者はみな、日本人「慰安婦」被害者を常に気にかけているのに、目の前の政治課題になかなか据えられないでいます。被害者の尊厳回復を日本の問題として闘う中で、被害者が名乗り出ていない日本人「慰安婦」問題はどうしても後回しになってしまいがちです。目を背けているわけではないのに取り組みが後回しになってしまう、そういう後ろめたさが私の中にあります。
 一方で、橋下市長や小林よしのりのような詭弁家がいます。橋下市長は「慰安婦」制度は必要だったと主張し、米軍は沖縄の風俗産業を活用すべきと言うようなことを平気で言います。小林よしのりは、名乗り出ていない日本軍「慰安婦」は立派だと褒め称えます。ふたりにとって日本人「慰安婦」は、被害者ではありません。
 そういう感覚は、多くの日本人が共有しているものです。
 強制連行はなく、「商売」だったから被害者ではないという感覚も、根底は同じです。かつての遊郭で働いていた女性が「籠の鳥」と言われるような「性奴隷」(認めたくない人のために「債務奴隷」と言い換えてもいいです)であったと知っているにもかかわらず、あるいは「人さらい」に売られたような人もたくさんいたということを知っているにもかかわらず、「商売だから」「どこにでもあった」という言葉で正当化しようとするのです。

 日本軍「慰安婦」にさせられた女性は、「被害者」なのでしょうか?
 当然、「被害者」です。そのことをこの本は明快に答えてくれます。ある女性はあふれる前借金から逃れるために「慰安婦」となり、ある女性は人身売買の犠牲となり、またある女性は就業詐欺に遭い、軍属であった女性が「慰安婦」にさせられた例もあったようです。その全てが当時においても法律違反・犯罪でした。そしてそこにおける日本軍・政府の組織的関与は明らかです。
 それでも、その簡単な事実を周囲に「納得」させるのは、「理屈」だけではどうしても難しいように感じてしまいます。それは日本人「慰安婦」問題が、現在の性産業の問題と密接に関わっているからです。ほとんどの男性が、橋下市長と似たり寄ったりの女性観を持っていることを、私は知っています。
 そういう意味でも、この本の中に紹介されている菊丸さんの人生を紹介した記事、あるいは城田すず子さんをはじめとしてこれまで雑誌等でわかっている限りの日本人「慰安婦」にさせられた女性たちの人生をまとめたコラムは、秀逸でした。また「業者」をやっていた男性からの聴き取りも。こういう一人ひとりの生に触れると、理屈ではなく感情で、日本人「慰安婦」もまたまぎれもない被害者であったと納得できます。
 そして特に日本人「慰安婦」の人生に触れると、直接の被害よりも、戦後の責任の重たさを思い知らされます。被害の渦中にあるうちはそれが被害だと自覚できなくても、後にそれは表れるのです。
 名乗り出て、雑誌の取材を受けていた際中に自死した菊丸さん。遺書には
「ほかの女性は利口だったのよ。私のように馬鹿ではなかったのです」
と書き残していたそうです。
 なぜ彼女は人生を自己責任に帰し、命を断たねばならなかったのか。それは本人が自覚するよに、自己責任に言いあらわされるような被害だったのか?
 このルポを寄せた広田和子さんは、こう書いています。
 「菊丸さんの不完全燃焼の人生を、『慰安婦』であったことと結びつけるのは難しい。ただ取材中に感じた菊丸さんの心の奥にある何か、それは『肉体を売った』という事実、そのことから、本人自身が目をそらすことが出来なかったのではないか、泣いたり笑ったりした日常がどんなに多くあっても、心の奥にある事実は消えない。」
 これは日本軍「慰安婦」問題の根っこのところを言い当てていると思います。
 でも、橋下市長や小林よしのりのような御仁には、このことは理解できないんでしょうね。もちろん安倍首相にも。

 人生を狂わされるのが「慰安婦」被害者であるならば、狂わせたのは性奴隷制度であり、戦争であり軍隊です。橋下市長のいうような、慰安所を必要とする軍隊など、本当に必要なのでしょうか?
 安倍首相が談話の中で言う「戦場の陰には深く名誉と尊厳を傷つけられた女性たちがいたことも、忘れてはなりません」という言葉が、本当に空々しく感じます。安倍首相は海外の被害者ばかりでなく、同胞の「慰安婦」被害者にも向き合っていません。

 日本が戦争への道を歩み始めているいまだからこそ、読まれるべき一冊です。
(だい)


文化 | 00:50:35
映画『“記憶”と生きる』
 十三の第七藝術劇場にて、土井敏邦監督の『“記憶”と生きる』を観ました。3時間半が全く長く感じない、とても貴重なドキュメンタリーでした。
 この映画に出てくるハルモニたちとは、もう誰とも会うことができません。『“記憶”と生きる』とは全く文字通りの意味。私たちがハルモニたちの“記憶”と生きるために何が必要なのか。その重みを噛みしめる映画でした。

 第1部は「分かち合いの家」。姜徳景ハルモニを除いたハルモニたちの証言を丁寧に映し出しています。
 金順徳ハルモニの証言に泣きました。
 「お金じゃなくて、歴史に残したくないのだ。悪いことをしたと、日本は認めたくないのだ」
 「私たちにも尊厳がある。お金が欲しいんじゃない」とも。
 李容女ハルモニは、「何回喋らせれば気がすむんだい」とおっしゃっていました。

 「慰安婦」にさせられたという被害体験だけでなく、その後の人生も堪えがたいほど狂わされたという重みが、とても強く伝わっています。被害申告しようとすると家族に反対され、申告したらしたで一向に解決する気のない日本政府に苛立ち、夜も眠れないハルモニたち。

 この映画が撮られた当時、私は、日本政府はお金を払いたくない(戦後補償のパンドラの箱を開けたくない)のだと思っていました。でもそれは私の勘違いでした。姜徳景ハルモニや金順徳ハルモニのいう通りです。日本は加害の歴史を認めたくないのです。安倍談話で、それは本当にはっきりしました。
 日本政府は今も(20年経った今も!)加害の歴史を認めたがりません。安倍談話からは加害の事実には全く触れないまま、反省も謝罪もありませんでした。河野談話で約束された歴史の継承は、教科書から削除されたことによって反故にされたままです。
 ええ、ハルモニのおっしゃられる通りでした。20年前のハルモニに教えられました。

第2部「姜徳景」。
 そして、やはりこの映画の中心は、姜徳景ハルモニです。そしてここでも、被害証言だけではなく、解放後の苦しみ、“記憶”と生きることとの苦しみが語られます。松代(と思われる)慰安所から解放後祖国に帰り、日本兵との間に生まれた幼子を釜山の孤児院に預けることを語るハルモニの表情が忘れられません。おそらくこのことが、ハルモニを永遠に苦しめてきた“恨”なのでしょう。
 死の間際、金順徳ハルモニと朴玉蓮ハルモニが病院を訪ね、姜徳景ハルモニとこんな印象的な会話を交わしていました。
 「誰か会いたい人はいるかい?」
 「会いたい人がいても仕方がないよ」
 「そう、会いたくても仕方がないね」
 どう仕方がないのでしょうか? 「そんなことはないよ」となぜ金順徳ハルモニは返さなかったのでしょうか?
 このとき会いたくても仕方がないひとが、その幼子だったとは限りません。ただそういう秘密をたくさん抱えるだけの辛い人生であったことは確かです。
 姜徳景ハルモニが描いている鳥が何かを咥えていて、それが何かと訊ねられたとき、ハルモニは「私の“秘密”を咥えているのだ」とおっしゃいました。被害者は多かれ少なかれ、そういう“秘密”を抱えてきました。それが周囲のハルモニも分かっているからこそ、「そう、仕方がないね」と返したのかなと、そう思っています。そしてそういう“秘密”とか“恨”は、やはり日本の加害の結果です。「慰安婦」にさせられた被害がなければ、こんなふうに人生が狂わされることはなかったはずです。慰安所だけの被害体験だけではありません。その後の狂わされた人生に対しても、責任が、戦後責任があるはずです。
 大事なのは、ハルモニたちはそういう“記憶”を抱えて生と格闘してきたということです。そして私たちは、そういうハルモニたちとキチンと向き合って、ハルモニの“記憶”と共に生きていかなければならないということです。

 映画後のトークショーで、土井監督はこの映画を作ったきっかけが、橋下大阪市長の「慰安婦」発言にあったと仰いました。橋下市長には、ハルモニの“記憶”とは生きていません。だからああいうふうに、いとも簡単に被害者の尊厳を傷つけることができるのです。
 「この映画の目的は、マスではなく、一人ひとりのハルモニと向き合うこと。マスでは痛みを感じ取れない」と土井監督はおっしゃいましたが、その一人ひとりと向き合うことの重みと必要性を、この映画は教えてくれます。
 姜徳景ハルモニはいまわの際に、病の床にある自分の姿を日本に見せたいと仰っていました。闘い始めたのだから、最後まで闘わないと、と……。
 私たちも姜徳景ハルモニに誓います。姜徳景ハルモニの“記憶”とともに生き、被害者が生きておられるうちに日本政府の謝罪と賠償を実現するため最後まで闘います。

 映画『“記憶”と生きる』は、大阪では9/19~9/25まで、第1部は12:30から、第2部は15:10から上映されます。ぜひみなさんもご覧下さい。(だい)

文化 | 01:57:57
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