2015/11/10
2015年11月10日
大阪府教育委員会 様
日本軍「慰安婦」問題・関西ネットワーク
子どもたちに渡すな!あぶない教科書大阪の会
【抗議文および公開質問状】
「『慰安婦』に関する補助教材」に抗議します
政府見解を一方的に押しつけるのではなく、
日本軍「慰安婦」問題の被害を具体的に教えるべきです
10月28日の教育委員会会議で「『慰安婦』に関する補助教材について」が示されました。私たちはその内容に驚き、怒りを禁じ得ません。日本軍「慰安婦」問題の被害の実態を一切示さないまま、政府の見解を一方的に押しつけるものだからです。このような偏った教材を高校生に押しつけることに抗議します。
この教材は以下の3項目の事実だけを記載しています。
Ⅰ 慰安婦問題に関する近年の主な動き
Ⅱ 吉田清治氏に関する記事の掲載とその取り消しについて
Ⅲ 慰安婦問題に対する日本政府の考え
この3項目は単なる事実の羅列ですが、事実の取捨選択が間違っていると言わざるをえません。ここでは、日本軍「慰安婦」被害者の声や姿には全くふれられません。日本軍「慰安婦」問題とは何であるのかの言及がなく、政府の見解だけを示すのであれば、それはもはや歴史の教材としての体をなしていません。この教材だけを読めば、高校生たちは「日本軍『慰安婦』被害者の強制連行はなかった」「日本軍『慰安婦』問題は存在しない」と信じてしまうでしょう。
この教材作成のきっかけは吉田清治氏に関する朝日新聞記事の取り消しだそうですが、吉田証言は、金学順さんら被害者が名乗り出ることによって日本軍「慰安婦」問題が本格化した1991年よりも前のものです。1992~1993年にはすでに信憑性が疑われており、歴史史料として用いられたことはありません。当然、教科書の記述への影響はなく、教育現場もそれによって左右されてはいません。いま、高校生に吉田証言とその真偽を教える理由はなにもありません。
私たちは、日本軍「慰安婦」問題について学ぶ上で補助教材を用いることそのものに反対するものではありません。むしろ歴史の事実を正しく教え、高校生に正しい歴史認識を持って欲しいと願っています。そのためには、日本軍「慰安婦」被害者の被害実態を具体的に学ぶことが必要です。その上で政府見解を知り、政府がこの問題にどう向きあっているのか考えることが大切です。多様な資料を生徒自らが検討し自主的な判断をくだせるようにすることこそが本当の意味での歴史学習ではないでしょうか。
日本軍「慰安婦」被害者たちは、20年以上にわたって日本政府に対して謝罪と賠償、歴史教育を通じての記憶の継承を一貫して求め続けてきました。また河野談話でも「歴史の真実を回避することなく、むしろこれを歴史の教訓として直視し」「歴史教育を通じて、このような問題を永く記憶にとどめ」るとしています。そして世界では、日本軍「慰安婦」問題は女性の人権問題としてとらえられています。いまも世界各地で頻発している戦時性暴力を根絶するため、そのシンボルとして、この問題が注目されているのです。2014年の国連自由権規約委員会では「委員会は、締約国が、慰安所のこれらの女性たちの『募集、移送及び管理』は、軍又は軍のために行動した者たちにより、脅迫や強圧によって総じて本人たちの意に反して行われた事例が数多くあったとしているにもかかわらず、『慰安婦』は戦時中日本軍によって『強制的に連行』されたのではなかったとする締約国の矛盾する立場を懸念する」と、日本政府に対して勧告が出されています。
私たちは、このような一方的な教材を作成し使用させようとする大阪府教育委員会に、抗議します。
そして日本政府の見解ばかりでなく、日本軍「慰安婦」被害者の被害事実を同時に教えることを要求します。
*
大阪府教育委員会は、日本軍「慰安婦」問題は歴史認識の問題であると同時に人権問題であるという視点を持ち、以下の質問に誠実に答えてください。
なおこの質問状はHP等で公開します。11月24日までに文書で回答願います。
《質問》
1,補助教材として日本軍「慰安婦」被害者の証言、少なくとも日本の裁判所にて認定された被害事実を掲載するべきと考えます。[資料①]
これに対する貴職の考えを教えてください。
2,日本政府の主張ばかりを載せるのではなく、国連の勧告、アメリカ・EU議会の決議等、国際社会から日本政府に対して要求されている声を掲載するべきと考えます。[資料②]
これに対する貴職の考えを教えてください。
3,大阪府教育委員会として、日本軍「慰安婦」被害者の強制連行はなかったと考えているのでしょうか。なかったと考えているのであれば、[資料①]も参考にした上で、その根拠を教えてください。あったと考えているのであれば、なぜその事実を教材に掲載しないのか教えてください。
4,吉田証言が否定されたことを今、副教材として取り上げるのは、吉田証言が教育現場で教えられていると貴職で判断されたからでしょうか。そうであれば、吉田証言を教育現場で教えている事実を調査しましたか? そうでなければ、教育現場で教えられていない吉田証言を副教材に掲載する意図を教えてください。
5,この教材を作成するに当たり、学識経験者の意見を求めましたか。もし学識経験者の意見を求めたのであれば、それが誰なのか教えてください。もし意見を求めなかったのであれば、それはなぜなのか教えてください。
[資料①]
■ 朝鮮人「慰安婦」被害者に対する裁判所の事実認定の例
関釜裁判 山口地裁下関支部判決(1998年4月27日)
2、慰安婦原告らの被害事実
〔被告の〕反証は全くないものの、高齢のためか、慰安婦原告らの陳述書やその本人尋問の結果によっても、同原告らが慰安婦とされた経緯や慰安所の実態等については、なお明瞭かつ詳細な事実の確定が殆ど不可能な証拠状態にあるため、ここでは、ひとまず証拠(甲一、 三ないし甲六、原告朴頭理、原告李順徳)の内容を摘記した上、末尾においてその証拠価値を吟味し、確実と思われる事実を認定することとする。
( 一 ) 原告河順女の陳述
① 原告河順女は、大正七年(一九一八年)二月二日、現韓国全羅南道木浦市で生まれた。 家は貧しく、葉葺きで部屋二つであった。同原告は、一九歳であった昭和一二年(一九三七年)の春ころ、現韓国全羅南道光州市で呉服屋を経営していた社長宅に住み込みの家政婦として働いていたが、買い物のために外出したとき、洋服を着た日本人と韓国式の服を着た朝鮮人の二人の青年から、「金儲けができる仕事があるからついてこないか。」と声をかけられた。 同女は、当時としては婚期に遅れた年齢にあり、金儲けがしたいと思っていた矢先であったので、どんな仕事をするかわからないまま、彼らを信用してついて行くことにした。同女は、朝鮮の港から大阪に連れて行かれ、大阪で一泊した後、再び船に乗せられるなどして、上海に連れて行かれた。
② 同女は、上海のアメリカ人かフランス人の租界区の近くにある「陸軍部隊慰安所」と書かれた看板が掲げられている長屋に連れて行かれた。 同女を勧誘した日本人男性が慰安所の主人であった。右長屋は、人が二人やっと寝ることができる程度の広さの、窓のない三〇室位の小部屋に区切られており、同女は、その一部屋を割り当てられた。同女は右部屋で炊事・洗濯の仕事をさせられるものと思っていた。 しかし、右長屋の一部屋を割り割り当てられた翌日、カーキ色をした陸軍の服を着た日本人の男が部屋に入ってきて、同女を殴って服を脱がせたため、同女は悲鳴をあげて逃げようとしたが、部屋の戸に鍵がかかっており、逃げることはできなかった。
③ 同女は、その翌日から、右部屋において、生理のときを除いて毎日朝九時から夜二時くらいまで、軍人との性交渉を強要され続けた。慰安所の主人の妻が軍人から金をもらっていたが、同女は一度も金をもらったことはなかった。同女は軍人の相手をしたくなかったので、炊事・洗濯などの家事をしていたチョウさんという中国人夫婦の手伝いに時々抜け出したり、主人に対して、炊事・洗濯だけの仕事をさせてくれるよう懇願したが、その都度、激しく殴られ、生傷が絶えなかった。同女は、ある日、どうしても耐えられず、慰安所から逃げ出したが〔略〕連れ戻され〔略〕、主人から、長さ約五〇センチメートルの樫の棍棒で体中を激しく殴られ、最後に頭を殴られ大出血をした。 この時の頭の傷が原因で、同女は、現在も雨降りの際に頭痛がしたり、時々頭が空白になる症状に悩まされている。
④ 終戦後、慰安所の主人も軍人らも、同女だけを慰安所に残したままいなくなった。 残された同女は、建物を壊したり放火していた中国人から危害を加えられるのではないかという恐怖の中、チョウさんの奧さんに匿われた後、上海の坤頭まで連れていってもらった。同女は埠頭で三日間、乞食のように野宿をして帰国船を待ち、ようやく帰国船に乗って釜山に帰り着き、故郷に帰ることができた。 故郷では、父親は怒りや悲しみのために「火病」で亡くなっており、〔略〕母親には上海に行って軍人の家で炊事などをしたと嘘を告げた。
⑤ 同女は、釜山挺身隊対策協議会へ被害申告をするまで、従軍慰安婦であったことを隠し通し、本件訴訟提起に際して初めて実名を公表した。
(二) 原告朴頭理の陳述と供述
① 原告朴頭理は、陰暦一九二四年(大正一三年)、九月二日、現韓国慶尚南道三浪津郡で生まれた。同女は、七人兄弟の一番上に生まれ、弟三人と妹三人がおり、家の暮らしぶりは非常に貧しかったため、自分が働いて金を稼いで家に入れなければならないと思っていた。 同女が数えで一七歳のころ、三人の男が娘たちを集めるために、同女らの家族が住んでいた村にやってきた。 同女の家にも、五〇歳以上と思われる朝鮮語と日本語を話す男が訪ねてきて、同女に対し、「日本の工場で金になる仕事がある。」と話しかけてきた。同女は、日本の工場に行って働き、金儲けをして父母を養いながら嫁に行きたいと考え、その男の話を信用して日本の工場に働きに行くことに決めた。同女は、父母に対し、「日本で稼いで家族に仕送りがしたい。」と申し出たところ、父母はこれを疑うこともなく反対もしなかった。その後、同女を勧話した男が、同女と一〇人くらいの村の娘らを一緒に釜山に連れて行った。同女は、釜山から大きな船に乗せられて台湾へ連れて行かれた。
② 〔要旨。 船酔いのため〕入院した後、慰安所へ連れて行かれた。同女を動誘した男が慰安所の主人であった。主人は同女に対し、「客をとれ。」と述べ、同女は、「それは話が違う。」と逃げようと考えたが、言葉も道も分からず、頼れる人も知っている人もいないため、逃げることはできなかった。同女は男と接したのはその時が初めてであり、乱暴な暴行を受け、軍人たちから強姦された。日本人の軍人が客の多数を占めていたので、慰安所において朝鮮語を使うことは暴力によって禁止されており、同女の呼び名も「フジコ」であった。
③ 同女は、一日に一〇人前後の男の相手をさせられ、性交渉を強要された。休みは一か月に一日だけであり、自由な外出もできなかった。 慰安所での食事は粗末であり、食べたい物を買う金もなく、あまりの空腹のため、慰安所の近くのバナナ園のバナナを取って食べ、そのことで、バナナ園の主からも、慰安所の主人からもひどく叩かれたこともある。同女は、台湾にいた五年問、慰安所の主人から金をもらったことはなく、位の高い軍人からもらうチップも慰安婦として身奇麗にしておくための化粧品を買える程度のものだった。
〔要旨。 弟から「文房具がほしい」という手紙が来ても金がなく、泣いていた同女に同情した他の「慰安婦」の募金で買って送ったこともあった〕同女は、慰安婦として長年、性交渉を強いられたことにより、右の太股の下がパンパンに腫れ上がるという病気に罹り、その手術痕が現在でも遺っている。
④ 同女は、敗戦後、慰安所の管理人であった朝鮮人の男に連れられて船で故郷に帰った。
同女は、父母に対し、「台湾にある日本の工場で働いていたが給与はもらえなかった。 」と虚偽の事実を述べた。その後、同女は、結婚し子供も生まれたが、台湾の慰安所での生活のことは隠し通してきた。 同女は、本件訴訟提起により〔略〕実名にて初めて公表した。
(三) 原告李順徳の陳述と供述
① 原告李順徳は、陰暦一九一八年一〇月二〇日、朝鮮全羅北道裡郡慕縣で生まれた。同女は、父母が出稼ぎに出ているため、家事一切を切り回していた。同女は昭和一二年(一九三七年)の春、満一七、一八歳のころ、夕食の準備をするため畑の畦道で蓬を摘んでいたところ、四〇歳位の朝鮮人の男から、「そんなことをしているよりも自分についてくれば、履き物もやるし着物もやる。腹一杯食べられるところに連れて行ってやる。」と声をかけられた。同女は、家が貧しく満足な履き物もなく、空腹を癒すことに精一杯の生活を送っていたため、その男の誘いに応じてついて行くことに決めた。同女が「父母に挨拶してから行きたい。」と懇請したにもかかわらず、その男は、「時間がない。急ごう。」と言って、同女の手を引っ張って行った。同女は男から手を引っ張られたことに驚き、恐ろしく恥ずかしくてそのまま泣きながら連れて行かれた。同女は、その途中、その男の前を歩かされ、約一時間後に裡里邑の旅館に連れて行かれた。同旅館の部屋は、外から鍵がかけられ、同女と同じような年齢の娘たちが一四、五人おり、いずれもどこに何のために連れて行かれるのか分からず泣いていた。翌日カーキ色の服を着てゲートルを巻き腰にサーベルをぶら下げた旧日本軍の軍人三人が、同女らを裡里駅から列車に乗せて三日かけて上海駅まで連れて行った。上海駅に着いた後、〔要旨。 右軍人と一緒に別の軍人が運転するトラックの荷合に乗せられ、約三時間後、駐屯地へ連行された〕
② 同女らは、陸軍の駐屯地の大きな軍用テントの近くに転々(ママ)と置かれた小屋に一人ずつ入れられた。その小屋は、むしろの壁に萩の木で編んで作った傾斜のない屋根が葺かれ、二、三畳の広さの床は枯葉を敷いた上にござを敷き、その上に国防色の毛布を敷いた粗末な造りであった。そのため、雨が降ると雨水がたくさん漏れてきた。同女は、軍服と同じ色の上着とモンペを支給され、最初の二日間に血液検査と「六〇六号」という注射を打たれた。その「六〇六号」という注射は、その後も二週間に一回の割合で打たれた。
③ 陸軍駐屯地に入れられて四日目に、星が三個ついた軍服を着たミヤザキという年配の将校が小屋に入ってきて、同女に対して執拗に性交を迫り、これに抵抗できなくなった同女を三日間にわたり毎晩犯した。その後、多くの軍人が小屋の前に行列をつくり、次から次へと同女を強姦し、昭和二〇年〔略〕八月の解放の時まで約八年間、毎日朝九時から、平日は八、九人、日曜日は一七、八人の軍人が、小屋の中で同女を強姦し続けた。
④ 同女は、昭和一〇年〔略〕六、七月ころ、ある兵隊から、「自分と約束しているのになぜ他の男と寝たのか。」と責め立てられ、軍靴で腹を蹴り上げられたり、刀で背中を切りつけられたりしたこともあった。そのときの傷痕は現在でも同女の体に遺っており、今でも痛みがあり、特に雨の降る日などは胸がうずき、めまいなどのために歩くことさえままならない症状に悩まされている。同女は、右の暴行による傷の治療を一週間受けただけで、また軍人との性交渉を強要された。
⑤ 昭和二〇年〔略〕の日本の敗戦後、陸軍駐屯地から日本の軍人はいなくなり、残された同女は、「解放だ。帰ろう。」と叫びながら集まってきた朝鮮人とともに、屋根のない貨車に乗って何日もかけてようやく家に帰ることができた。同女が家に帰ると〔略〕弟が叔母の家に身を書せていた。両親は、同女を探し回り、絶望して亡くなってしまっていた。同女は、弟にも、後に二度結婚した夫に対しても、自己の被害事実を隠し通してきた。同女は二度の結婚生活の間、子どもができず、婦人科の診察を受けて初めて自己の子宮が変形しており、子どもができない体になっていることを知った。
(四) 慰安婦原告らの陳述や供述の信用性
① 前記(一)ないし(三)のとおり、慰安婦原告らが慰安婦とされた経緯は、必ずしも判然としておらず、慰安所の主人等についても人物を特定するに足りる材料に乏しい。また、慰安所の所在地も上海近辺、台湾という以上に出ないし、慰安所の設置、管理のあり方も、肝心の旧軍隊の関わりようが明瞭でなく、部隊名すら分からない。
しかしながら、慰安婦原告らがいずれも貧困家庭に生まれ、教育も十分でなかったことに加えて、現在、同原告らがいずれも高齢に達していることをも考慮すると、その陳述や供述内容が断片的であり、視野の狭い、極く身近な事柄に限られてくるのもいたしかたないというべきであって、その具体性の乏しさにゆえに、同原告らの陳述や供述の信用性が傷つくものではない。かえって、前記(一)ないし(三)のとおり、慰安婦原告らは、自らが慰安婦であった屈辱の過去を長く隠し続け、本訴にいたって初めてこれを明らかにした事実とその重みに鑑みれば、本訴における同原告らの陳述や供述は、むしろ、同原告らの打ち消し難い原体験に属するものとして、その信用性は高いと評価され、先のとおりに反証のまったくない本件においては、これをすべて採用することができるというべきである。
② そうであれば、慰安婦原告らは、いずれも慰安婦とされることを知らないまま、だまされて慰安所に連れてこられ、暴力的に犯されて慰安婦とされたこと、右慰安所は、いずれも旧日本軍と深くかかわっており、昭和二〇年〔略〕八月の戦争終結まで、ほぼ連日、主として旧日本軍人との性交を強要され続けてきたこと、そして、帰国後本訴提起に至るまで、近親者にさえ慰安婦としての過去を隠し続けてきたこと、これらに関連する諸事実関係については、ほぼ間違いのない事実と認められる。
■ オランダ人「慰安婦」被害者に対する裁判所の事実認定の例
オランダ人裁判 東京地裁判決(1998年11月30日)
(一)原告らの被言事実
原告らは、いずれも、日本軍の捕虜又は民間人抑留者として捕虜収容所又は民間人抑留者に収容された期間中に、次に述べる被告の戦争犯罪行為の犠性になったものである。原告らの被害事実は、それぞれ次のとおりである。
(8)原告工リー・コリー・ヴァン・デル・プローグ
ア 原告エリー・コリー・グァン・デル・プローグは、一九二三年一月四日出生し、一九四二年三月当時、高校を卒業したばかりであった。
そのころ収容が始まり、プローグは、母親及び姉弟とともに車の展示場に閉じ込められた後、スマランにあるハルマヘイラ収容所、その後クラマット収容所にそれぞれ収容された。プローグは、右のいずれの収容所においても、炎天下の中で点呼やお辞儀を数時間も強制され、軍靴で蹴られるなどの暴行を受けた。また、食料及び医療品は不足していた。
プローグは、マツクジラプリィのたばこ会社で働くと聞かされていたにもかかわらず、スマランのクラブで慰安婦として強制売春をさせられた。そのため、プローグは、性病に罹患してしまい、オランダ本国に帰国後、その治療に一年間の期間を要した。
プローグは、一九四五年八月一五日、バタヴィアのクラマット収容所から解放された。しかし、プローグの家族は、インドネシアでの家も店もその他あらゆる財産を失い、プローグの父も殺されてしまっていた。
プローグが収容されたスラマン(ハルマヘイラ)抑留所は、モロタイ臨時軍法会議法廷において、戦争犯罪で断罪されており、プローグが戦争犯罪行為の犠牲者であることは明らかである。
イ プローグに対する本件加害行為のうち、非人道的な取扱、強制労働に従事させたこと、虐待をしたこと、特にスラマンにおいて慰安婦として使役したことは、ヘーグ陸戦規則四六条一 項に違反する。
■ 中国人「慰安婦」被害者に対する裁判所の事実認定の例
中国人一次裁判 東京高裁判決(2004年12月15日)
第三 当裁判所の判断
1 本件各行為及びその背景事情等について
証拠(甲3ないし11、〔略〕、当審における証人近藤、同石田、原審における控訴人李本人、同控訴人周本人、原審及び当審における控訴人割本人)及び弁論の全趣旨によれば、以下の事実が認められる。(一部公知の事実を含む。)
(1)日本軍は一九三一年のいわゆる満州事変を発端として、当時の中華民国本土への軍事的介入を開始し、一九三七年七月七日のいわゆる盧溝橋事件を切っ掛けに、中華民国政府と交戦状態となった。日本軍の北支那方面軍は、同年一〇月初めころ山西省に侵入し、同年一一月八日に省都である太原を占領した後、敗戦に至るまで八年近く同地域の占領を続けた。なお、日本軍が占領した地域には、日本軍人の強姦事件を防ぐ等の目的で、「従軍慰安所」が設置され、日本軍の管理下に女性を置き、日本軍将兵や軍属に性的奉仕をさせた。八路軍が一九四〇年八月に行った大規模な反擊作戦により、日本軍北支那方面軍は大損害を被ったが、これに対し、北支那方面軍は、同年から一九四二年にかけて徹底した掃討、破壊、封鎖作戦を実施し(いわゆる三光作戦)、日本軍構成員による中国人に対する残虐行為も行われることがあった。このような中で、日本軍構成員によって、駐屯地近くに住む中国人女性(少女も含む)を強制的に拉致、連行して強姦し、監禁状態にして連日強姦を繰り返す行為、いわゆる慰安婦状態にする事件があった。
(2) 控訴人李の被書事実等 【注】李秀梅
控訴人李は、一九二七年春、山西省盂県八区李庄村(現在の山西省孟県西播郷李庄村)の農家に三人兄弟の末っ子として生まれ、一九四二年当時、父母及び兄と四人で暮らしていた。なお、李は、当時の中国の風習に従って幼少時に纏足をしたため、歩行が困難で、走ることは全くできない。また、当時のこの地方の女性たちに一般的なことであったが、全く就学の機会がなかったため、字の読み書きをすることができない。(これらの点は、劉、周及び陳についても同様である。)
李は、一九四二年旧暦八月ころ〔新曆を略〕、日本軍兵士らによって自宅から日本軍の駐屯地のあった進圭村に拉致・連行され、駐屯地内のヤオドン(岩山の横穴を利用した住居。 転じて、横穴を穿ったものではなく、煉瓦や石を積み重ねて造った建物も指す。)に監禁された。その当日、駐屯地内の砲台の中の部屋に連れて行かれ、日本軍兵士に強姦されたのを初めとして、後記のように5か月ほど後に自宅に運ばれるまでの間、上記のヤオドンあるいは砲台の中の部屋で、ほとんど毎日のように複数の日本軍兵士らに強姦を繰り返された。当時、李は、一五歳で未婚であり、性体験はなく、性行為についての知識もなかった。
李は、監禁されて五か月ほど経ったころ、強姦に来る者の中でひときわ残酷な対応をすると感じていた者から強姦されようとした際、抵抗したところ、その者からベルトで顔面を殴打されたり、左大腿部を軍靴で蹴り付けられたり、こん棒で頭を殴られるなどの暴行を受け、大怪我を負わされた。李は、見張りの者によって進圭村の民家に運ばれたが、それを伝え聞いた兄によって数日後自宅に搬送された。
その後、李は、二〇歳のころ結婚し、夫との間に四人の子どもが生まれ、現在は夫と二人で西煙鎮に居住し、〔要旨。 子供たちの援助で生活〕。そして、李の体には、上記の拉致・ 監禁・ 強姦・暴行等のために、頭部には陥没した傷痕があって、頭が痛くなったり、緊張すると気分が悪くなったりする。左手はその手首が右手首より細くなっている上、自由に動かない、左大腿部を負傷したため左臀部が右臀部より小さく、足の長さも左足の方が短い、右目は上記のベルトによって顔面を毆打されて以来見えにくくなり、若いころにはある程度見えた左目も今はほとんど見えなくなっている等の後遺症が残っている。
(3) 控訴人劉の被害事実等 【注】劉面換
控訴人劉は、一九二七年春、中国山西省盂県西潘郷羊泉村で〔略〕生まれ、〔略〕一九四三年の旧暦三月ころ〔略〕、三人の中国人と三人の武装した日本軍兵士らによって無理やり自宅から連れ出され、銃底で左肩を強打されたり、後ろ手に両手を縛られるなどして抵抗を排除された上、進圭村にある日本軍駐屯地に拉致・連行され、ヤオドンの中に監禁された。そして、当日、〔略〕多数の日本軍兵士らによって強姦された。〔略〕このような監禁と強姦が約四〇日間にわたって続けられた。〔略〕父が「娘の体を治したら、また連れて来るので、いったん帰らせてほしい」と懇願したことにより、〔略〕やっと解放された。
その後、劉は、結婚したが、村の人々が上記のような劉の被害事実を知っていたため、相手は年の非常に離れた再婚の男性だった。 〔要旨。 子供は五人、左肩の傷は今も治らず、左手では物も持てないなどの後還症に苦しんでいる〕
(4) 控訴人周の被害事実等 【注】周喜香
控訴人周は、一九二五年に生まれ、一五歳で結婚し、山西省孟県西潘郷李庄村で夫とその家族と共に暮らしていた。 周は、一八歳の時に共産党に入党し、村の婦連(共産党に関連した地元の婦人組織)の主任として活動していた。
一九四四年三月、周を含む共産党組織の一二名が会合を開いているところへ日本軍が襲い、周は、銃底で左腕を殴られたり、後ろ手に縛られたりして進圭村に連行され、一軒の民家に監禁された。その日の夜、周は、何人もの日本軍の兵士に立て続けに強姦された。次の日以降も、周は、少なくとも六日間にわたり上記の部屋に監禁された状態で、日本軍の兵士らに連日連夜強姦された。ある日、周は、進圭村から他の場所に連行されて行く途中で八路軍に救出され、家に戻ることができた。
周は、上記の暴行・ 強姦等のため、体が思うように動かず、夫との間で夫婦生活を行うこともできなくなり、子供をもうけることもできなかった。〔要旨。夫は病気で農作業が出来ず自殺〕その後、周は、生活のために子供のある男性と結婚したが、〔要旨。その夫も死亡し、夫の連れ子の世話で暮す〕。そして、周は、今なお上記のような暴行・強姦による恐怖を繰り返し思い出すことを余儀なくされるなど、精神的に苦しむ日々が続いている。
(5) 控訴人陳の被害事実等 【注】陳林桃
控訴人陳は、一九二三年、山西省孟県西潘郷候庄村で生まれ、一五歳の時〔略〕結婚し、羊泉村で〔略〕住んでいたが、後に夫は八路軍に身を投じ、任務で家を空けるようになった。一九四三年旧暦七月ころ、陳は、日本軍兵士によって強制的に進圭村の日本軍駐屯地に拉致・連行され、日本軍兵士などから「夫の居場所を吐け」などと尋問されたり、何回も殴打されるなどした上、ヤオドンの中に監禁され、〔略〕約二〇日間にわたり、監禁された状態で、夜昼なく何人もの日本軍兵士らに強姦された。陳は、上記の暴行・強姦などによる傷害等のため、人が呼んでも反応しないような状態になってしまったが、それを伝え聞いた家族らがものを売ったり借りたりして金を作り、これを日本軍に渡して陳を取り戻した。〔以下要旨。その後、実家で生活。夫も退役し、子供は六人。当時折れた骨が右大腿部に突出し、歩くのに杖が必要。悪夢に悩まされる〕
(なお、上記(2)ないし(5)の事実認定について付言すると、〔要旨。控訴人らは別紙により、事実関係に関する具体的詳細な主張を行っているが〕出来事からの時間的経過や、控訴人らはいずれも当時の体験をそれに近接した時間内に記録していたわけでもないこと等にかんがみると、本件における事実としては上記の限度で認定するのが相当である)
[資料②]
国連など、国際的な諸機関がおこなった勧告等を、近年に行ったもののみを掲載しています。
■ 国連自由権規約委員会 最終所見(2014年)
「慰安婦」に対する性奴隷慣行
14. 委員会は、締約国が、慰安所のこれらの女性たちの「募集、移送及び管理」は、軍又は軍のために行動した者たちにより、脅迫や強圧によって総じて本人たちの意に反して行われた事例が数多くあったとしているにもかかわらず、「慰安婦」は戦時中日本軍によって「強制的に連行」されたのではなかったとする締約国の矛盾する立場を懸念する。委員会は、被害者の意思に反して行われたそうした行為はいかなるものであれ、締約国の直接的な法的責任をともなう人権侵害とみなすに十分であると考える。委員会は、公人によるものおよび締約国の曖昧な態度によって助長されたものを含め、元「慰安婦」の社会的評価に対する攻撃によって、彼女たちが再度被害を受けることについても懸念する。委員会はさらに、被害者によって日本の裁判所に提起されたすべての損害賠償請求が棄却され、また、加害者に対する刑事捜査及び訴追を求めるすべての告訴告発が時効を理由に拒絶されたとの情報を考慮に入れる。委員会は、この状況は被害者の人権が今も引き続き侵害されていることを反映するとともに、過去の人権侵害の被害者としての彼女たちに入手可能な効果的な救済が欠如していることを反映していると考える(2 条、7 条、及び8 条)。
締約国は、以下を確保するため、即時かつ効果的な立法的及び行政的な措置をとるべきである。
(i) 戦時中、「慰安婦」に対して日本軍が犯した性奴隷あるいはその他の人権侵害に対するすべての訴えは、効果的かつ独立、公正に捜査され、加害者は訴追され、そして有罪判決がでれば処罰すること。
(ii) 被害者とその家族の司法へのアクセスおよび完全な被害回復。
(iii) 入手可能なすべての証拠の開示。
(iv) 教科書への十分な記述を含む、この問題に関する生徒・学生と一般市民の教育。
(v) 公での謝罪を表明することおよび締約国の責任の公的認知。
(vi) 被害者を侮辱あるいは事件を否定するすべての試みへの非難。
■ 社会権規約委員会最終所見(2013年)
C.主な懸念事項および勧告
26.委員会は、「慰安婦」が被った搾取が経済的、社会的及び文化的権利の享受及び補償の権利にもたらす長きにわたる否定的な影響に懸念を表明する(第3条、第11条)。
委員会は、締約国に対し、搾取がもたらす長きにわたる影響に対処し、「慰安婦」が経済的、社会的及び文化的権利の享受を保障するためのあらゆる必要な措置をとることを勧告する。また、委員会は、締約国に対して、彼女らをおとしめるヘイトスピーチ及びその他の示威運動を防止するために、「慰安婦」が被った搾取について公衆を教育することを勧告する。
■ 女性差別撤廃委員会 最終所見(2009年)
【女性に対する暴力】
37.委員会は、「慰安婦」の状況について締約国がいくつかの措置をとったことには留意するが、第二次世界大戦中に被害を受けた「慰安婦」の状況について、締約国が永続的な解決を見出していないことを残念に思うとともに、学校の教科書からこの問題に関する記述が削除されたことに懸念を表明する。
38.委員会は、「慰安婦」の状況について、被害者への補償、加害者処罰、公衆に対するこれらの犯罪に関する教育を含む、永続的な解決を見出す努力を締約国が緊急に行うべきとの勧告を改めて表明する。
■ 拷問禁止委員会 最終所見(2013年)
19. 第二次世界大戦中の日本軍性奴隷制の慣行の被害者、いわゆる「慰安婦」に対して行われた虐待を認めるためにとられた諸手段に関して日本政府から提供された情報にもかかわらず、委員会はこの問題に対処するに当たり、締約国が、特に以下について本条約に基づく責務を果たすのを怠っていることに、深い懸念を持ち続けている(条約第1条、第2条、第4条、第10条、第14条、16条)。
(a) 適正な救済とリハビリテーションを被害者に提供するのを怠ったこと。委員会は、公的資金ではなく民間の募金による財政で賄った賠償が、不十分かつ不適切であったことを遺憾とする。
(b) 拷問のこのような行為の加害者を訴追し、裁きの場に立たせて刑を受けさせるのを怠ったこと。委員会は、拷問の効果が本質的に継続的である点に鑑み、被害者が受けるべき救済、賠償、リハビリテーションを奪うため、時効は適用されるべきでないことを想起する。
(c) 関連の諸事実および資料の隠ぺい、または公開を怠ったこと
(d) 複数の国会議員を含む国および地方の、高い地位の公人や政治家による、事実の公的な否定や被害者に再び心的外傷を負わせることが継続していること
(e) とりわけ歴史教科書でこの問題に関する記述が減少していることにみられるように、ジェンダーに基づく条約違反を防止するための効果的な教育的施策を実施するのを怠ったこと
(f) 本委員会の勧告や、その他の多くの国連人権機関、とりわけ自由権規約委員会、女性差別撤廃委員会、社会権規約委員会、人権理事会から委任を受けた複数の特別手続などによる諸勧告と類似のものであるところの、この問題に関連してUPR(国連「普遍的定期的審査」)の文脈でなされた複数の勧告を、締約国が拒絶(A/HRC/22/14/Add.1, paras.147.145 et seq.)していること。
本委員会一般勧告第3号を想起しつつ、本委員会は締約国に対し、即時かつ効果的な立法的および行政的措置をとり、「慰安婦」の諸問題について被害者中心の解決策をとるよう強く求める。特に:
(a) 性奴隷制の諸犯罪について法的責任を公に認め、加害者を訴追し、適切な刑をもって処罰すること
(b) 政府当局者や公的な人物による事実の否定、およびそのような繰り返される否定によって被害者に再び心的外傷を与える動きに反駁すること
(c) 関連する資料を公開し、事実を徹底的に調査すること
(d) 被害者の救済を受ける権利を確認し、それに基づき、賠償、満足、できる限り十分なリハビリテーションを行うための手段を含む十全で効果的な救済と補償を行うこと
(e) 本条約の下での締約国の責務に対するさらなる侵害がなされないよう予防する手段として、この問題について公衆を教育し、あらゆる歴史教科書にこれらの事件を含めること。
■ 人種差別撤廃委員会 総括所見(2014年)
「慰安婦」
18.委員会は、締約国の代表団から提供された、第二次世界大戦中に日本軍により性的に搾取された外国の「慰安婦」の問題解決のために行われた努力に関する情報に留意する。委員会はまた、1995年に締約国が設立したアジア女性基金を通して提供された補償と、2001 年の日本の首相の謝罪を含む政府の謝罪の表明に関する情報に留意する。生存する「慰安婦」に対する人権侵害は、彼女たちの正義および賠償の権利が完全に実現されない限り続くことを踏まえ、委員会は、大半の「慰安婦」が認知、謝罪、ないしはいかなる種類の補償も受けたことがないという報告に懸念する(第2条と第5条)。
委員会は締約国が以下のために即時の行動をとるよう促す:
(a) 日本軍による「慰安婦」の権利の侵害に関する調査の結論を出し、人権侵害に責任のある者たち を裁くこと、
(b) すべての生存する「慰安婦」あるいは彼女たちの家族に対する誠実な謝罪の表明と適切な賠償の 提供を含み、「慰安婦」問題の包括的で、公平で、永続的な解決を追求すること、そして、
(c) それら出来事の中傷あるいは否定のあらゆる試みを非難すること。
各国議会が日本政府に対しておこなった決議を一部掲載します。(同時期の決議にオランダ、カナダ、韓国、台湾の国会決議があります。)
■慰安婦に関する欧州議会の決議(2007年)
欧州議会は、
2007年を持って迎える奴隷貿易廃止200周年を尊重し、
日本も署名した婦人及児童の売買禁止に関する国際条約(1921)を尊重し、
日本が批准したILO強制労働禁止条約29号条約(1930)を尊重し、
女性と平和及び安全保障に関する国際連合安全保障理事会決議1325(2000)を尊重し、
武力紛争時の組織的なレイプ、性奴隷制と類似の慣行に関する国連特別報告者ゲイ・マクドゥーガルによる報告(1998年6月22日)を尊重し、
第38回国連拷問禁止委員会(2007年5月9日、10日)の結論と勧告を尊重し
ハーグの日本占領下オランダ領東インドにおけるオランダ人女性に対する強制売春に関するオランダ政府文書調査報告(2004)を尊重し、
2007年7月30日に採択された米国議会の決議と、2007年11月29日に採択されたカナダ議会の決議を尊重し、
手続き規則の規則115を尊重し、
A.1930年代から第二次世界大戦終了までのアジアと太平洋諸島の植民地及び戦時占領地において、日本政府はIanfuないしは‘慰安婦’として世界に知られることとなる若い女性たちを帝国軍の性奴隷にするためだけの目的で公務として徴用し、
B. ‘慰安婦’制度は輪姦、強制堕胎、屈辱及び性暴力を含み、障害、死や自殺を結果し、20世紀の人身売買の最も大きなケースのひとつであり、
C. 日本の裁判所に持ち込まれた多数の‘慰安婦’訴訟では、皇軍の直接・間接の関与を裁判所が認めながらも、原告による補償請求はその全てにおいて却下に終わり、
D. ‘慰安婦’制度の被害者のほとんどはすでに故人であり、生存者は80歳以上であり、
E. この数年の間に、多数の日本政府の高官や公人が‘慰安婦’制度に関する謝罪の声明を発表した一方、日本の公人の幾人かはそれらの声明を希薄化したり無効化させようという遺憾な願望を最近になって表明し、
F. 日本政府はその性奴隷制度の全貌をすべて明らかにしたことはなく、日本の学校で使用される教科書は、‘慰安婦’の悲劇やその他の第二次世界大戦中の日本の戦争犯罪を最小化しようと試み、
G. 政府によって開始された民間財団であり、‘慰安婦’の虐待と痛みを償うためのプログラムやプロジェクトを実施する役割を持つアジア女性基金の権限は、2007年3月31日をもって終了し、
1. 多党制民主主義、法の支配、人権の尊重などの価値を相互共有することに基づく欧州連合と日本の間のすばらしい関係を歓迎し、
2. 第二次世界大戦中の'慰安婦'制度の被害者である女性たちと連帯することを表明し、
3. 1993年の河野洋平内閣官房長官並びに1994年の村山富一首相による‘慰安婦’に関する声明、また1995年と2005年の'慰安婦'制度の被害者を含む戦時被害者に対する謝罪を表明した日本の国会の決議を歓迎し、
4. 日本政府によって1995年によって設立され、今は解散している、そのほとんどの資金が政府によるものである民間財団であるアジア女性基金が、‘償い金’を数百人の‘慰安婦’に配ったことを歓迎するが、しかしこの人道的措置は被害者たちの法的な認知と、公的な国際法による賠償への請求を満たすものではないとする女性に対する暴力に関する国連特別報告者ゲイ・マクドゥーガルが1998年の報告で述べた内容を考慮し、
5. 1930年代から第二次世界大戦終了までのアジアと太平洋諸島の植民地及び戦時占領地において、世界に‘慰安婦’として知られる、皇軍による若い女性を強制的に性的奴隷状態においた行為を、日本政府は明確かつあいまいなところのないやり方で、公式に認知、謝罪、そして歴史的、法的な責任を受け入れることを勧告し、
6. 生存している全ての'慰安婦'制度の被害者及び死亡した被害者の家族に対する賠償を行うための効果的な行政機構を日本政府が設置すべきことを勧告し、
7. 日本の国会は、日本の裁判所が賠償命令を下すための障害を取り除くべく法的措置を講じることを勧告し、特に個人が政府に賠償を求める権利は国内法において至急実現されるべきであり、国際法で犯罪である性奴隷制の生存者に対する賠償請求裁判は、生存者の年齢を考慮すれば優先されるべきであり、
8. 日本政府は、‘慰安婦’を服従させ隷属させたことは一度もなかった、といった意見に対して公的に反論することを勧告し、
9. 日本の人々と政府に対して、全国家の道徳的義務であるので自国の歴史を全て認識すること、そして‘慰安婦’に関連することを含め1930年代から1940年代にかけての日本の行為を認識するために、さらなるステップを踏むことを奨励し、
日本政府にこれらの事例を現在及び未来の世代に教育することを勧告し、
1. 欧州議会議長に、この決議を日本政府と議会、国連人権委員会、ASEAN諸国の政府、朝鮮民主主義人民共和国、大韓民国、中華人民共和国、台湾、東ティモール民主共和国、及び欧州理事会、欧州委員会とEU加盟国に送付するように指示する。
■ 米下院決議(2007年)
日本政府は、1930年代から第二次大戦継続中のアジアと太平洋諸島の植民支配および戦時占領の期間において、日本軍への性的隷属というただそれだけの目的のために、やがて世界に「慰安婦」として知られるようになった若い女性たちの確保を公的に行なったものであり、
日本政府による強制軍事売春たる「慰安婦」制度は、その残酷さと規模において前例を見ないものとされるものであるが、集団強かん、強制中絶、屈従、またやがて身体切除、死や結果的自殺に至る性暴力を含む、20世紀でも最大の人身取引事件の一つであり、
日本の学校で使用されている新しい教科書には「慰安婦」の悲劇その他第二次世界大戦中の日本の戦争犯罪を軽視しようとするものがあり、
日本の公人私人が最近になって、「慰安婦」の苦労に対し日本政府の真摯な謝罪と後悔【「お詫びと反省」】を表明した1993年の河野洋平内閣官房長官の「慰安婦」に関する声明を、弱めあるいは撤回する欲求を表明しており、
日本政府は1921年の「婦人及児童ノ売買禁止ニ関する国際条約」に署名しており、また武力紛争が女性に与える特徴的影響を認めた2000安保理の「女性、平和と安全保障に関する決議1325号に賛成票を投じたものであり、
下院は人間の安全保障、人権、民主主義的価値観および法の支配を促進しようと する日本の努力を、安保理決議1325号支持国となったこととともに賞賛するものであり、
日米の同盟関係は米国のアジア太平洋地域における安全保障の関心事の柱石のひとつであり、地域的安定・繁栄にとって基礎的であり、
冷戦後の戦略的展望における変化に関わらず、日米同盟は、政治的経済的自由の保護促進、人権・民主主義機構の支援、両国ならびに国際社会の人々のため繁栄を確保することなど、【両国】共通の、アジア太平洋地域における肝要な利益と価値に基づくものであり続けるものであり、
下院は、民間基金たるアジア女性基金の1995年設立をもたらした日本の公人と民間人の勤労と情熱を賞賛し、アジア女性基金が日本の人々からの「償い」を慰安婦に届けるべく5700万ドルの寄付金を集めたものであり、政府によって着手され資金の多くを政府に負う民間基金であり、「慰安婦」の虐待と苦労に対する償いのためのプログラムやプロジェクトを実行することが目的であったところのアジア女性基金の任務が、2007年3月31日をもって終了し、基金が同日をもって解散することから、
今や以下の形が下院の認識である。
(1)日本政府は、1930年代から第二次大戦継続中のアジアと太平洋諸島の植民支配および戦時占領の期間において、世界に「慰安婦」として知られるようになった若い女性たちに対し日本軍が性奴隷制を強制したことについて、明瞭かつあいまいさをとどめない形で公的に認め、謝罪し、歴史的責任を受け入れるべきである。
(2)日本政府は、もし日本の首相がそのような謝罪を、首相としての資格で公式声明として発表すべきとするならば、これまでの声明/談話の真摯さと位置づけについて繰り返される疑問に、決着をつけるようにするであろう。
(3)日本政府は、日本軍のための「慰安婦」の性奴隷化と人身取引はなかったとする如何なる主張に対しても、明確かつ公的に反駁すべきである。
(4)日本政府は、現在および未来の世代に対しこの恐るべき犯罪について教育し、「慰安婦」に関わる国際社会の数々の勧告に従うべきである。