森川万智子『文玉珠 ビルマ戦線楯師団の「慰安婦」だった私』

 語り・文玉珠/構成と解説・森川万智子『文玉珠 ビルマ戦線楯師団の「慰安婦」だった私』(梨の木舎)を再読しました。現在は増補版が出版されていますが、未入手のため、旧版でのご紹介です。

 慰安所での経験が長い被害者の語りほど、怒りが心の奥底に沈殿し表に出てこないと感じることがよくあります。抑圧された生活が長期に及べば、そこでの生活に順応することでしか生きていくことができず、怒りや悔しさを覆い隠し記憶の奥に追いやらねば心が壊れてしまうからです。

 この本の中にある文玉珠(ムンオクチュ)さんの証言は、泣き叫び苦しい心の中を吐露し、強く怒りをぶちまけることはしません。それを森川さんはあとがきで「自分が日本人だからだろう」と述べていますが、そればかりではないだろうと思います。被害体験が深ければ深いほど、被害回復もまた容易ではありません。

 文玉珠さんは二度、慰安所生活を体験しています。一度目は1940年、旧満州のソ連との国境に近い東安省で1年ほど。その後一度は生まれ故郷に帰ったものの、二度目にビルマへ。それが1942年から終戦まで。

 東安省での慰安所での体験は、ビルマ戦線ほどには詳細に語られてはいません。文玉珠さんご本人があまり語らなかったそこでの被害体験の記述を一部紹介します。

「毎日泣いた。泣いても泣いても男はきた。毎日二十人から三十人ほどの日本人の兵隊がきた。客は日本の兵隊や憲兵たちだけだった。」

 文玉珠さんはとても賢く、おそらくは少々やんちゃで、そしてとても生きる力に富んでいたのだと推察します。幼少期、キーセンになるための学校では何度か聴くだけで1曲2時間もかかるパンソリを歌えるようになるし、大牟田の料理屋では下働きをしながら歌を歌って酔客を喜ばせていたと語っています。東安省の慰安所でも李香蘭を歌って軍人を喜ばせています。

 そんな順応性を見せても、彼女は自分の心を冷静に見るもう一人の自分がいたようでした。

「それに、そのときわたしは、これ以上慰安婦を続けてはいけない、とも考えていた。心がおそろしいように荒んでいくのが自分でもわかっていた。」

 本当に、とても賢い女性なのだなと思います。

 しかし一度はうまく東安省から逃げ帰ったものの、ふたたび慰安所へと戻ることになってしまいます。「日本軍の食堂に働きに行こうよ、金もうけができるよ」と誘われて。ビルマについた時、他の女性たちは騙されたと泣き叫んだが、文玉珠さんは東安省での経験があるから、他の女性たちとは受け止め方が違ったようです。少し長いけれど、とても心に止まった一文を紹介します。

「将校たちの歓迎会や送別会などのパーティにお呼びがかかるようになってきた。わたしは金になるのだからと自分を納得させて、パーティにも行ったし、とにかく一生懸命に働いた。もちろん、わたしは珍しい例で、慰安婦がみんなわたしたちのようだったわけではない。

 日本語が覚えられなかたり、慰安婦の生活にどうしても慣れることができない娘もいた。そういう娘は、軍人が言葉をかけても返事をしないし、反抗的な態度をとる。そうすると軍人は、ただ勝手に行為だけすまして帰るし、いらいらして余計に慰安婦に乱暴するようになる。殴られたり、蹴られたりということにもなる。かわいそうに、乱暴される娘はいつも決まっていた。どんなに抵抗してもわたしたちは逃げることはできないのに……。

 男の相手をしたくないという気持ちはわたしも同じだけれど、慰安所ではそれは通用しない。娘にとっても兵隊にとっても、お互いに辛く惨めなことだった。」

 文玉珠さんの証言は、日本軍「慰安婦」問題を否定したい人たちに利用されています。軍人からもらったチップをこつこつとためていて軍事郵便貯金をして、戦後その引き出しを日本政府に求めたために、「高級娼婦だった」とも。

 文玉珠さんは長い慰安所生活の中で一度も業者からお金を受け取ったことはないと証言していますし、その額についても日本軍支配の崩壊によって役に立たなくなった軍票であり資産価値などなかったことはたくさんの研究者が立証していることですが、そのことはここでは置きます。

 文玉珠さんは慰安所の中でとても「うまく」振る舞ったので、たくさんのチップを受け取っただけの話です。文玉珠さんのもとに通った多くの兵士にとって軍票などなんの役にも立ちませんから、不思議なことでもなんでもありません。否定派の言うことなど信用に足らないと、少し考えればわかることです。

 ここで考えたいのは、先述した「うまく」の中身です。

 朴裕河は言います。「被害者だが同志的関係にあった」と。

 文玉珠さんの証言の表面だけを追えば、たしかに慰安所での生活に適応したように見えます。歌を歌って兵士を和ませ、特別な「スーサン」もできます。(慰安所における擬似恋愛は文玉珠さんに限った話ではなく、よく聞かれる話です。)証言の中でなんども「日本兵はかわいそうだった」ということも聞かれます。これが朴裕河のいうところの「同志的関係」なのでしょう。日本軍「慰安婦」制度が日本軍と一体のものであり、皇軍が侵略戦争を推し進めるためのものであったこと、そして女性たちの中には自分の気持ちを兵士と一体のものとして考えるようになったからといって……つまり、彼女の心まで奴隷状態にさせられたからといって、「同志的関係」という言葉が適切なのでしょうか?

 たしかに文玉珠さんは「うまく」生きたのだとは思います。「うまく」生きられない女性たちは兵士に殴られ、足蹴にされ、強かんされ続けました。しかしそのことは文玉珠さんが「強かんされなかった」「売春婦だった」「被害者ではなかった」ということにはなりません。性奴隷ではなかったということにはなりません。

 文玉珠さんの心の奥の奥に抱える苦しみが、 なかったということにはなりません。

 慰安所という異国の限られた空間に放り込まれ、周囲は日本兵ばかりで、なにが正しくてなにが間違っているのか判断する尺度さえ日本軍に奪われた状況で、日本兵に「うまく」合わせることが「同志的関係」なのであれば、それは誰の立場にたったものの見方なのでしょうか?

 人生に辛いことがあったはずなのにそのことは口にせず、楽しかった過去ばかりを話すというのは、なにも文玉珠さんに限った話ではありません。わたしたちの身近にもそんな人はたくさんいます。辛いことが深ければ深いほど、人はそれを語ろうとしません。

 戦場の中で生きた5年間を人に話す時、そこに語れない苦しみが明るい語りの後ろに隠れていることを想像することは、それほど難しいこととは思えません。

 文玉珠さんは、このようにもおっしゃっていたそうです。

「もう、もう……、慰安婦だったということは、忘れようと思っても忘れられない、消そうと思っても消せないことですよ。わたしは、前世でどんな悪いことをしたからこんな報いを受けたのか、と思っています。」

「わたしはあのとき、一生懸命慰安婦をしていました。酒をのみ、たばこを吸い、歌を歌って……。爆撃を受け、逃げまどったり、ジャングルの中を何日もひもじい思いをしながら歩きに歩いたですよ。もう話にもならない。」

「わたしは人間じゃなかった。あのときわたしは人間じゃなかった。」

 文玉珠さんの苦しみがどれほど深いものだったか、私たちに寄り添う気持ちがあれば十分読み取ることができます。

 いま、日本軍「慰安婦」問題についての日本人の感じ方は、「嘘」という一部の主張と、圧倒的大多数の無関心です。日韓合意に関しても「韓国がまた蒸し返している」という主張ばかりで、誰も被害者の苦しみに向き合おうとしてしていません。

 文玉珠さんの証言についても、否定派は自分の都合のいいようにねじ曲げて利用しますが、彼女の苦しみに少しでも向き合おうとしたのでしょうか?

 みなさん、被害者の証言に、まずは向き合ってみてください。その人がどんな人だったのか、知ることから始めてください。

 私たちは4月21日(金)18:30から、大阪市立総合生涯学習センターにて、この本の著者の森川万智子さんをお招きして学習会を開催します。ぜひともご参加ください。

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