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【追悼】陳蓮花阿媽

12月の「アマ・ミュージアム」開館式のときにはお元気そうに挨拶されていました。元気そうに見えただけなのかもしれません。それだけに哀しさが募って仕方ありません。

あなたの生きた人生を、私たちは忘れません。

台湾の元「慰安婦」裁判を支援する会からの訃報を転載します。

みなさま
残念な、悲しいお知らせをしなければなりません。

台湾の陳蓮花さんが今夜2017年4月20日、午後8時頃お亡くなりになりました。

昨年の12月10日の「阿媽の家」オープンには元気な姿を私たちに見せてくれたので、そのとき、開館式に参加してくださったみなさまから声をかけてくれたかたもいたと思い、お知らせいたします。
開館式以後、台湾の正月が終わった頃から体調をくずし、3度ほど手術をしました。

4月13日、ICUに入っている陳蓮花さんにお会いしてきましたが、チューブが口に入っており、呼びかけるとうっすら目をあき、かすかにうなずく様子がみられましたが、言葉を交 わすなどはほど遠い状態でした。

陳蓮花さんは、1924年生まれ、フイリピンで看護助手を募集しているといわれ、セブ島で「慰安婦」被害を受けました。

米軍の攻撃を受けたりしながらセブ島に到着。台湾人兵士に「どうしてきたのか」と聞かれ、「看護婦の仕事をしに」といったら「看護婦じゃない、慰安婦だ」と言われましたが、「慰安婦」の仕事とは何かわからなかったといいます。
やがて米軍の艦砲射撃がひどくなり、山中へ逃げ込んだりしますがこの逃避行の中で台湾から一緒に来て仲良くしていた女性が亡くなり、彼女の爪や髪を切って持ち帰りました。帰国してからも彼女の身内を見つけられなかったため、その後も蓮花さんはその人を弔い続けたといいます。

日本降伏後、米軍の捕虜収容所で、最初にあった台湾人兵士が蓮花さんを探しに来て奇跡的に再会し、やがて台湾に帰ってから2人は結婚します。
帰国してからも経済的には苦しく、洋裁などで生計をたてました(蓮花さんは、ワークショップに参加するときなど自分で縫ったという洋服を着ていつもおしゃれでした)。

蓮花さんは、阿媽たちのワークショップ等にはいつも参加していましたが、公に名前や顔を出すのはずっと後のことでした。
なぜ、顔や名前を出すことにしたの?と聞いたことがあります。蓮花さんは「もう年をとったからね。いいんだよ」といいました。

蓮花さんが初めて大勢の人を前にした証言は、日本の京都での証言集会の時でした。
ときおり、日本語でカンポウシャゲキと表現し、そのすさまじさを「パラパラパラ」と身振り手振りで語りました。そして泣きました。なるべく泣かないように毅然としていた蓮花さんが泣きました。


気強く、信仰深く生きてきた蓮花さんの旅立ちの途がどうぞ平安でありますように・・・。
 
蓮花さん、私たちはあなたを忘れません。
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